都市という人口環境がその機能効率を確保するためには、元々存在するはずの複雑な多様性を合理的に簡素化することが不可欠で、結果的に人々は分類され階層化されていく。もしかしたらそうされるのを望んでいるのは我々自身かも知れないのだが。

日本で暮らしていた頃は、レジの会計待ちで後ろのお客さんと立ち話することなど皆無だった。言語道断というほどではないものの、馴れ馴れしい行動は礼節に反する、というような空気が日本にはある。その空気感を一人ひとりが知らずうちに演じてさえいる。

実体化しようとTry and Errorを繰り返したことは、そこに明確な理由があったというよりもむしろ、脳が自ら獲得した特権である超本能の出力に大きなトルクが掛かった、それに尽きるのではないか。

我々が一歩を踏み出すときには、必ず自分の体重を前に放り出すだけの力を、元居た場所に残していかなければならない。何の犠牲も無しに前進できる世界など無い。どんな取引であれ利潤だけを得ているという判断はただの勘違いである。

自分自身は寿命という制限時間に縛られた存在だが、生きているこの瞬間は常に制限時間という枠組みを超越している。なので、投資は将来へのリスクヘッジではなく、この瞬間をどう生きるかに直接かかわる投資が僕にとってやはり魅力がある。

今ある世界は、実は長い長い人類の流血の上に成り立っていると言って決して過言ではない。もしも彼らの流血が無かったのなら、いま、我々が自らの血を流して闘っていなければならないはずなのだ。

ほとんどの個人は、自分自身のバイタリティのピークをかなり過ぎた後になって、他の誰かよりちょっとでも賢く生き抜くためのノウハウを奪取しようと懸命になる。

自分が多く稼ぐには、便利なツールを真っ先に導入し、誰よりも早く使いこなす。誰にも先を越されないうちに。二倍のスピードで、十倍の効率で物事を処理して、他と差を着けなければならない。食事も子作りもそういうスピードで済ませればよい。

作品はより多く生産されることを望まれ、同じ完成作品をより低コストで、より短期間で製造することを善とするようになる。そこで実際には、制作者の動機はもしかしたら軽んじられてしまったのかも知れない、と僕は想像する。