僕が電車で出掛けるときは、駅までお互い徒歩で一緒に行って、僕は望むに電車に乗り込み、ジョジョはホームでお座りしながら僕の出発を見届け、そのあとはきっと街をしばらく散策して、のんびり帰宅していたようだ。

現代アートを生産すること自体、それにそぐわしい現代の意義がありそうである。数千年続く人類の芸術行為に現代的な役割を付加したし、制作にかまけるための言い訳もより複雑怪奇になっている。

僕が今、A=Bを考えなければならなくなった理由は、ある精神科医の言葉がきっかけである。その精神科医曰く「心は脳である」らしい。 確かにその通り、心は脳機能の現象である。そこで僕は考えた。脳は心であるか。 否である。

あとから読み返して、良く考えてみるともしかしたら適切でないかも知れない、と思えば消しゴムで消すことができるが、口から放ってしまった言葉を取り消そうと思ったら、会話の当人に謝らなければならず、謝った言葉がまた相手を傷つけ、汚れ、傷を深くする。

人類の数十万年の歴史の中で、これほど身体を使わない生活はかつて経験したことがなく、空想に空想を重ねる不安や心配を、ひっきりなしに脳内で生成しなければならない状況も、現代ほど過剰に経験したことはかつてなかったはずだ。

現代社会に生きる僕らは率直に言えば世界を甘く見ている節がある。何か途轍もなく大きな要素をうっかり見過ごしているように感じられてならない。