都会にて
都市で生活することのアドバンテージは何と云ってもその利便性にあると思う。日々の買い物はもちろん、身の回りの品々を何かしら補充したり追加したりするにも、さらには仕事を選ぶにも、都市にいるだけでそれらはほとんど身近にあって、選択肢も豊富にある。
ただし我々のほとんどは、都市という巨大なプロジェクトの建設に携わったわけではない。そのシステムが長い時間をかけて徐々に構築されて機能し始めた後に、我々各々が自分たちの都合で集まってきた。
世界中の大都市には高層ビルをそのまま集合住宅にした居住スペースが増えている。生活における煩わしさをそぎ落とし、とにかく便利に生活できるように設計されている居住施設だ。
トイレに行って排泄しても、そこがたとえ地上30階にあるフロアであれ、自分の排泄物を見ることもなく、済ませた後はボタン一つで汚れた場所をシャワーで洗ってもらえて、水を流してトイレを出る時には排泄物は綺麗さっぱり無くなっていて、あたらしい水がまたそこに満たされている。
しかしながら、排泄物はこの世から消滅したわけではない。下水のパイプ内に移されただけだ。
30階のフロアから地下に埋設されている下水管へと一気に落とされて、もしかしたら木っ端みじんになって、街の地下に敷設された下水管の中を巡る。おそらく見ず知らずの他の誰かの汚物と一緒にごちゃ混ぜになって、下水処理場までユルユルと運ばれていくのだろう。
排泄物だけではなく、生活の中で不要になるゴミも、都会では迅速に処理される。
スーパーに買い物に行って食材を買い、帰宅して夕食の準備をし、食材がお皿に並んだ時点で、品物をパッケージングしていたあらゆる容器は無用になる。それらのどれもが工業製品としてわざわざそれだけのために製造されたものであるが、一度封を開けるとそれらは再利用などされることも無く、廃棄される。それらをゴミ箱に移し、家の外にあるポリバケツにまとめて放り込んでしまえば、あとは業者の人たちが約束通りに回収してくれる。
これらのシステムが丁寧に設計され、稼働している限りにおいて、都市の生活はそのアドバンテージを利用者に披露し、供給していられる。
つまり都市を成立させるには、その利便性に便乗する側の者と、利便性を保持する側の者とが拮抗しながら、お互い不即不離で日々を過ごしている。
都市のアドヴァンテージを機能させる側、つまり利便性を保持するための労働者は、言うなれば都市の下着みたいな役目を担うわけで、無いと困るものの邪魔になってもならない。労働者の人選は、例えばフィリピン人女性のドメスティックワークのような、ある種の慣習や政策としてではなく、都市が個人の属性を問わずに要求している。
僕の住むトリノの街にも、良く組織された清掃業者がある。家庭から排出されるごみを回収するスタッフ、あるいは道路、公園の掃除をしながら、街中に設置された公共のゴミ箱の整備を担当するスタッフ、道路に溜まった埃やゴミ、街路樹の落ち葉を、専用の車両を使って清掃するスタッフ。
これらの仕事に従事する人の姿からは、都市の抜き差しならない実情が垣間見える。便利な生活を支え維持するための裏方である。僕は彼らをある種の感謝をもって眺める。美味しい料理を提供するお気に入りのお店などとは全く別種の、何か根源的な存在要請をそこに感じるからだ。僕自身が都市の利便性を当てに生活している都市ユーザーであるだけに、都市に最も必要な秩序を維持する側の人たちに敬意を表さずにはいられない。
もちろん、これらの仕事はボランティアのような善意の事業で成り立っているわけではない。主従の関係が明確な雇用形態に則っている職業であり、それに就くにも厳しい資格が要求されるわけではない。しかしながら、例えば治安を維持する警察官、急な患者を診る救急医、あるいは火災を防ぐために出動する消防隊員のような、根源的な秩序維持に関わっているという点で、共通する部分があると僕には思える。もちろん、清掃員になるために、警察官や消防隊員と同様の厳しい訓練を受ける必要はないし、彼らのように一目置かれる存在でもないだろう。常に携帯するのはピストルと手錠ではなく、塵取りと箒、それにゴミ袋だ。かといって清掃員の仕事が誰にでも簡単にこなせるというわけではない。エベレスト登頂に挑むような体力や精神力を要求するわけではないが、かと言って脆弱では清掃員などとても務まらない。常に市民の目に晒されながら、決められた時間に決められた場所の秩序を維持管理する。風の日も雨の日も泣き言は言っていられないし、驚異的な存在感のある真夏の生ゴミにだって立ち向かわねばならない。
現代社会では全ての個人が形式的には社会から認知され、一人ひとりが人権によって保護されることになっている。誰しもが義務教育を受けて、平等なチャンスを与えられるという前提がある。しかしながら個人個人が持つ能力の違いによって、実際には獲得できるチャンスも異なってくるのが実情である。能力は様々な方法で括られ、測られ、評価されることが社会の観念に固定されている。
能力は類型で区分けされ、計測可能な部分だけに注目し、そこにスポットを当てられ、評価される。そこから生まれる能力階層は、様々な形で社会の中にテリトリーを構成し、次第に、縦横に張り巡らされた様々なしがらみを形成する。場合によっては個人が、想像以上に不自由な生活を運命づけられることさえある。自分には何の取柄もないと戸惑い、途方に暮れる個人が実際は少なくないだろうと僕には感じられる。人は皆それぞれ千差万別であるにもかかわらず、都市の生活様式は人の多様性と柔軟性に対応しきるキャパシティが不足している。複雑に見える都会でさえ、実際は人間そのものの方が遥かに多様で繊細である。
都市生活は確かに便利ではあるのだが、その利便性が本当に人類社会の幸福に貢献しているのかと問われれば、相殺されて余りある残酷さを内包しているのではないかと僕は疑う。これほど多くの人間が局所に集中して、こなさなければならないタスクとは一体何だろう。
そういえば、清掃員は警察官と違って、身体のいたるところに入れ墨をしていてもその役目に従事できる。実際にserie Aの選手さながら、身体中にタトゥをいれている清掃員をよく見かける。より格好良い自分になれるなら、そのための努力を怠らないようだ。たしかにタトゥの一つくらい腕に彫っておかないと今どきなら時代遅れと思われそうである。しかしながらタトゥに描かれた絵柄の意味以上に、その事実に見え隠れする心理に、むしろ僕はより切実なメッセージを予感する。都市という人口環境がその機能効率を確保するためには、元々存在するはずの複雑な多様性を合理的に簡素化することが不可欠で、結果的に人々は分類され階層化されていく。もしかしたらそうされるのを望んでいるのは我々自身かも知れないのだが。つまり誰しもが各々の基準でこちら側とあちら側を区別する、その積み重ねが属性や階層を作るのかも知れない。
都市は全てを概念で構成しているのように見えるが、街そのものは実際に全てが具体的である。
僕からすれば彼ら清掃員はありのままでも十分格好良いのだが、もしかしたら自分たちは一目置かれる存在ではないと負い目すら感じているのかも知れない。彼らの内面を勝手に想像しながら、彼らが輝いている姿をとどめておきたいと僕は強く感じた。

