日曜日の買い物で

 日曜日である。アパートの前を通り過ぎる車は平日の朝に比べて少ないし、特段、急いでもいないようだ。一階に住むのは防犯として良くないし、何よりこの、車の騒音が最もひどい。トリノはヨーロッパの中でも大気汚染の酷い街で、海からの風も無いし、街の周囲を高い山々に囲まれているがために、大気の流れが遮断されている。僕の愛車は残念ながらアパート前に路駐されたままだが、一週間も放置しておけば車のボディは薄っすらとグレーの粉末に覆われてしまう。PMナントカと云われる微粒子の煤だろうと思う。

 僕の一週間のルーティンは家と作業場の往復である。あるいは、キッチンと書斎兼ベッドルームの往復ばかりの時期すらある。いずれにせよ、愛車に乗って出かけることはほとんど無い。基本的に移動は徒歩である。それはそれでよいのだが、一応、利便性を考えて自動車は所持し続けていて、所持する以上はこれを一応、使える状態のままで保持しなければならない。それにはエンジンを始動し、動かすことが一番効果的である。だから定期的に、用事も無いのにクルマに乗って出かけなければならないわけだ。

 どうせなら写真でも撮りに出かければ良さそうなものだが、写真はトリノの中心街と決めているし、それ以外の場所でちょうどクルマで到着するのにふさわしい撮影ポイントを未だ開拓していない。したがって出掛ける先は例の通り近所のスーパーマーケットである。

 その日も僕は、街がのんびりと活動し始める頃合いに近所の大型スーパーマーケットへと出掛けた。買い物それ自体に苦痛を感じるわけではないものの、僕にとっては正直、それほど楽しいイベントでもない。買い物はできるだけ早く済ませたいのが僕の本音である。

 僕がいつも通うスーパーは、元々、フィアットの自動車工場だった平屋の建物を改装したもので、とにかくだだっ広い。二階は無いし、地下はお客さん用の駐車場で、一階だけの店舗の床面積は広大である。

 お店の入り口に重ねられているホイール付きのかごを取り、かごを連れ回しながら必要な商品をさっさと搔き集める。できるだけ最短時間でレジへと向かう。時短は歓迎されることだが僕は現金主義で、自動精算のシステムには手を出していない。

 歳を取って、益々もって新しい文化にチャレンジしなくなっている。これまでの慣れた作法が、たとえ時代遅れであろうと通用するうちはそこにしがみつく。年寄りはとにかく歩き慣れた楽な道を行きたがる。世界中が長期の停電に見舞われる日が来ないとも限らない、という屁理屈で武装して、小銭やらがごたごたした財布を持ち歩く。一日でも長くこの古い慣習に浸かっていようと僕は秘かに企んでいる。

 並んでいる人数の少なそうな列を見つけてそのレジに並んだが、運悪く、僕の前にいた老夫婦はこともあろうに大きなカートに山ような商品を入れていた。レジ清算にかかる時間はそこに並んでいる人数にもよるが、なんといっても商品の数である。僕の前の老夫婦は言わずもがな、数で圧倒する方のお客だった。大きなカートにはありとあらゆる商品が山盛りに詰め込まれている。

 老夫婦が商品をレジに並べはじめ、レジのお兄さんがすかさずそれらをバーコードスキャンに通していく。大きなものから小さなものまであらゆる商品がそのカートから湧き出てくる。ベルトコンベアで次々と流れてくる製品を永遠に検品する製造工場ような、ややもすると自我を失いかねない作業のようにも見え、レジのお兄さんはひたすらスキャンに追われている。

 後ろで待たされていると特にその時間は長く感じられるものだが、このときはばかりは、ウルトラマンの地球防衛活動は非常に高効率だったのだな、と思い至った。三分なんてあっと言う間なのだ。なによりレジのお兄さんの頑張りがあって、そして僕も冷静さを装って辛抱した甲斐あって、カートの中の商品はやっと空になり、レジのお兄さんは全ての商品をスキャンし終わった。

 さあ会計だ。老夫婦の旦那さんがおもむろにカートの手前に載せてある大きなバッグを探り出した。僕はてっきり支払いの準備のために財布を出すのだろうとほとんど確信していたのだが、その大きなバッグの中から出されたのは冷凍食品だった。もちろん一つや二つではない。僕自身、この手のリュック型のバッグが見た目以上に内容量が大きいことは知っているので、事態の展開に一瞬たじろいだ。

 レジで並んでいる客の中には、時折イライラした感情を露にする人を見かけるし、それもまあ分からないではない。マルチタスクを抱えて誰もが忙しいこの御時世に、事がスムーズに運ばないとそのことが無性に理不尽に感じられるのは当然だ。少子化が叫ばれているが、大忙しの現代社会では子供っぽい大人がわんさといらっしゃる。子供は実際に眼で見えているよりも遥かに多いだろう。僕も早いこと大人にならねばいかんのだ。

 僕自身は特に複雑なマルチタスクを背負っているわけではないので、待ち時間が少しばかり長くなったとて、瞬時に危機的状況に晒されるわけではない。しかしながらこの老夫婦の、このタイミングの冷凍食品には不意を突かれたので、思わず後ろを振り返って、僕のすぐ後ろに並んでいたお客さんと眼を見合わせてしまった。後ろにすでに人が並んでいることには気づいていたが、どんな人かなどいちいち確認はしていない。後ろの人が誰であろうと構わず、僕は後ろを振り返ると、後ろの人も僕の突然の視線に応えるように目を合わせてくれた。僕はすかさず「今の見た??!」と眼を見開いて驚愕ぶりをアピールした。すると後ろの人も愛嬌のある驚愕ぶりを首から上だけで上品めに表現してくれた。その人はすでに年金暮らしをしていそうなやや脱力感のあるおじさんで、一人でレジに並んでいらした。この冷凍食品の襲来を彼も予期していなかったに違いなく、してやられた感をやんわりと表現してくれた。タイミング的には支払いだろうと楽観していたところに、奥の手を出されてたじろいでいる我々待機組である。

 よくよく考えれば、あれほどの数の商品をカートに取ること自体、骨の折れる作業のはずだ。ひとつひとつ陳列棚から確認して手に取ったのだから。棚から棚への移動を考えれば総移動距離だって大したものだろう。その長い作業のあいだに冷凍食品が解凍してしまわないように、この老夫婦は万全の態勢で買い物に挑んでいた。

 考えてみれば冷凍食品はライフハック商品だ。スーパーマーケット自体がライフハックみたいなものだし。そしてライフハックのバッグに収納されていた冷凍食品もやっと全てレジのスキャンを終えた。この大型スーパーにはかれこれ3年程通っているが、ここまでの商品の量をひとまとめで会計するのは流石に初めて見る機会だった。レシートが全ての商品を記載し、最後の合計金額も記載し終え、レジのお兄さんがそれを引きちぎったが、レシートも1メートルを至ろうという長尺ものになっていた。

 「328ユーロです」とレジのお兄さん。思わず僕はまたも後ろを振り返り、小声で「328ですってよ!」とあえて実況する。後ろのおじさんは無言で「まあでも妥当なんじゃね?」みたいな納得感を表情だけで返してくる。ぼくはさらに「きっと彼らの息子夫婦と、その子供たちの分も込みの買い物なんでしょうね」と、328ユーロの投資先に対する当たり障りのない予想を小声で言い添えた。後ろのおじさんはすかさず「あとご近所さんの分も」と付け添えた。話題の映画でも見終えたような満足気な顔で、おじさんは見ず知らずの僕にそう返した。

 この老夫婦にとって日曜の朝の買い物は、一週間のうちでも上位にある重要イヴェントであるに違いない。それを無責任に茶化す後ろのおじさんの発想は如何にもイタリア気質に溢れている。僕は思わず声を出して笑ってしまった。この買い物の後、老夫婦は穏やかな気持ちで教会に行くのかも知れない。

 僕は、自分の分の商品をすでにレジのベルトコンベアに載せて準備OKだったので、老夫婦の支払いをなんとはなしに眺めていた。旦那さんの方がクレジットカードの照合をしているあいだ、ふと、これから帰宅する彼らが、アメリカ映画でよく見るだだっ広い郊外の住宅地に車を乗り付けて、この老夫婦の帰りを待っていたご近所さんたちがそれぞれの家の窓からカーテン越しに彼らを見守る様子を想像した。ご近所さんたちは俄かに鼻息も荒い。カーテンの隙間からトランクが開くのを待ち遠しく注視している。ライフハックの老夫婦がご近所さんたちの分まで買い物をするというあべこべさが、僕の空想を実在しないアメリカ郊外に渡らせた。

 日本で暮らしていた頃は、レジの会計待ちで後ろのお客さんと立ち話することなど皆無だった。言語道断というほどではないものの、馴れ馴れしい行動は礼節に反する、というような空気が日本にはある。その空気感を一人ひとりが知らずうちに演じてさえいる。そんな場所ではあたり前だが、会計待ちで並ぶことは意味の無い無駄な時間という認識以外にないだろう。だから現金支払いも煙たがられる。

 僕はいま、イタリアに住んでいる。大まかな北部と南部の違いを感じることはあるものの、国家を分断してしまうような対立や確執を持っているわけではない。2世紀前のアメリカではそれが戦争にまで至ってしまったが、そんな若々しさがあったころのイタリアは、既にはるか昔の話で、ちょうど地方に出向していたイタリア役人が事の成り行きでイエスキリストを縛り付けてしまったあの頃、当時がもしかしたらイタリアの血気盛んな時代だったのかも知れないな、と考えてみた。知らんけど。

 後期高齢国になったイタリアで、イタリア人のなかに紛れて僕は暮らしている。その日のスーパーマーケットでの会計はいつも以上に長い待ち時間を強いられた。それを生産性の無い無駄な時間だったといえばそれまでだが、簡単に切り捨てるようなことでもない、なんとも形容しがたい時間だったのは確かである。気持ちの良い日曜の午前であったことは確かである。