漂流する超本能
我々人間には元々自由意志など存在しない、という説がもはや科学者だけではなく一般的にも通説になりつつあるように感じている。
脳科学の研究成果において、我々の意識的な選択は、それにほんの僅か先行する別の“意志”によって既に決定されている、という結果が実証実験で明らかになったのは1980年代のことらしい。
自由意志が元々存在しないというのは、例えばコーヒーにするか紅茶にするかという選択において、それは個人が意識的に決定するものだと我々には実感されるが、実際には個人の意識に上がらない、意識の手前の潜在的な“本人”による選択であって、意識的には手の届かない無意識の“本人”による選択結果が我々の意識に事後報告されている、という見解のことだ。選択そのものの作業に意識は介入していない、とする説である。
そのプロセスが正しいとするならば、実際に選択を決定するアンタッチャブルな本人、つまり“無意識の意志”を操るのは何者なのだろうか。
我々人間にとって、他者とのコミュニケーションは当然のことながら、日常の瞬間瞬間においても、行動を意識的にこなしているのは明白で、それらの意識的な行動の基盤となるのは我々の意志だ、と実感しているのはきっと誰にとっても明白である。しかしながらよくよく考えてみると、例えばA地点からB地点まで徒歩で移動するとき、全ての道のりの過程の行動を逐一意識的に随意運動として命令指示しているわけではない。つまり、右腕を振ったと同時に左脚を前に出し、片足でバランスを取りながら左脚を後ろに送りつつ右脚を前に出す。それと同時並行に腕の振りは、既に前に出している右腕と逆転させながら、振り子のように左腕を前に振り出す、という運動は、もはや逐一、意識的な指示命令を必要としない。歩いている道すがらで水溜りがあったとしても、ほとんど無意識に進路の軌道をずらしてさえいるかも知れない。歩みを続けている足の先に犬の糞を発見すれば、その時は少し意識的になって、それを意図して避けるかも知れないが、それでも歩行そのものは不随意的に順序良く交互に手足を運動させているはずである。
例えば普段の通勤移動を考えてみると、自宅の玄関を出てから右か左かを意識的に選択するまでもなく、駅までの道順すら意識的には考えずに電車のホームまで的確に最短経路を取れる。もちろん、取るべき道順の記憶がすでに脳内にストックされているわけだが、記憶を逐一呼び戻したり、経路を想い出す、という検索作業も意識的には行われない。ナビゲーションのアプリをわざわざ開かなくとも、脳内では意識の操作を介入させることなく、経路をたどっている。もしも仮に最短経路を歩くために、毎日、その都度、記憶を呼び戻す検索作業を意識的に行って、更には手足を振り子のように動かす作業に対して意識的に逐一指令を出さなければならないとしたら、脳はショートしてしまうだろう。それは裏を返せば、意識的に執り行う作業というのは実際には量的に非常に限定的で、脳が執り行う記憶の検索作業や、行動に必要な運動の指令は、多くの場合、意識とは切り離されていると考えられる。
単純に考えて、そのほうが効率が良いからなのだろう。人間は、産まれた直後は歩くことも言語を喋ることもできないが、試行を繰り返すことで訓練を重ね、次第に動きを“身に付ける”。身に付いた動きはルーティンとなって意識的な指令を必要としなくなる。脳は消費カロリーの多い臓器だが、そのサイズは構造的に大きさの限界を持っているので、高効率で情報処理を執り行うメソッドが長い期間を経て発達したのだろう。あくまでも効率という視点で考えれば、意識の存在はむしろ余計なものとさえ言えるかも知れない。脳という臓器には元々、自己認識する機能である意識は存在しておらず、より高次元の情報処理を実現させるために後発的に付随されたと考えられる。自己認識、つまり指差し確認する機能が脳にとって欠かせない要素になったのは、脳が臓器としてある程度の発達を遂げた後に、さらなる高効率化を目指したことによる付帯機能だということだ。その見解が正しければ、人間は自己認識が無くても日常生活を支障なく過ごせるのかも知れない。つまり、自動運転のままに任せて、自分で意識的に何かを取捨選択する必要は必ずしもない、ということである。
話は飛ぶが、我々が日常的に使う家庭用のパソコンは、そのサイズは高が知れているが、産業用のいわゆるスーパーコンピュータと云われるものは、その外装もとても大きい。昨今はAIによるデータ解析や演算が飛躍的に発達してきたが、AIのデータセンターはこれまた巨大な装備を必要とし、それを起動させる施設もとんでもなく大掛かりである。翻って人間の脳はサイズが規定されている。厳密にミリ単位で規定されているわけではないが、あまり大きな脳を持っても、母親の胎内で生育できないだろうし、産まれるときに頭が引っかかって世間に出てこれない。胎児の脳の発達は、母体の身体の構造によって外的に規定されたと言っても過言ではない。AIデータセンターは施設の大きさに特別な制約はないから、お金さえかければ人間の知能の発達を簡単に凌駕していく可能性は非常に高い。
ところでスーパーコンピュータに必要とされる機能といったら何よりもまず演算能力であり、そのスピードだろう。それに必要なのはプロセッサで、CPUと呼ばれる演算処理装置である。スーパーコンピュータは膨大な数のCPUを並列に繋げることで同時並行して複雑な演算を可能にする。一方で昨今のAI機能に必要なのは何と言っても多彩な記憶、メモリーである。それが潤沢になければいわゆるディープラーニングなど実現しようもない。ディープラーニングとは記憶の積み重ねとアップデート、情報の取捨選択、アプローチの簡略化と効率化を肝とした思考法のテクニックである。
仮に、どこかのIT企業が社内のスーパーコンピュータを使ってディープラーニング機能に頼った特定のタスクを稼働させるとしよう。それを操作するオペレータはタスクにおけるプロンプトを作成するが、これを人間の脳の場合に例えて考えてみる。そのオペレータの役回りを我々の意識が執り行っているように思われがちだが、しかし我々の脳の場合には意識がプロンプトを書いているわけではなさそうなのである。脳の場合、プロンプトを入力するオペレータは我々の意識ではなく、脳内にいる無意識の“本人”であるはずで、僕らの意識はどうやらオペレータが施した作業内容を事後報告されて確認しているだけらしいのだ。オペレータである“本人”が、無意識のうちに勝手にプロンプトを“正しく”書いている、ということが脳のミステリーなのである。
再び話は飛ぶが、僕は普段から日常生活の中でいろいろなアイデアを探している。新作彫刻を具体的に制作する場合に必要な工法や手段はもちろん、作品の方向性や、プレゼンテーションにまつわる技術的な戦略など、画期的なアイデアがありさえすれば刷新したいことは山ほどある。そういう状態は僕の日常で、取り立てて珍しいわけではないが、稀に、意外な所から新しいアイデアを見つけることがある。
例えば先日、僕は古い友人に久しぶりに再会した。彼らの様相や、会話の中での意見が、僕の普段の生活からではとても思い付かないような突飛な内容だった。それらは僕にとって紛れもなく新しいアイデアとして活用できるもので、自分以外の人間が持つ思考には、当たり前だが想像もつかない異質なものが含まれていることを実感させられた。しかしながらその時の再会劇の場合は状況そのものも異質だった。というのも、しばらくして発覚するのだが、その再会劇自体が実は僕の夢だったからである。友人との会話の途中で急に僕はトイレを探し始めて、いざトイレに入ると数十人の人がトイレの中で鮨詰めになって順番待ちをしている。そして僕はその全員から圧倒的な威圧の眼差しを一身に受ける。僕の尿意はMAXになって、絶体絶命のピンチを迎えるのだが、そこで突然目が覚めて、その再会劇が夢だったと合点するのだ。
問題なのはトイレの中の人たちの迫力ある眼差しの方ではもちろんなくて、再開した友人の様相や、その会話の内容の方である。それらの全てを組み立てたのは実際は僕の無意識だからである。何しろその友人達というはかれこれ40年以上音信の無い小学校の同級生で、彼らの人相すらもはや僕は知らないのだ。つまり無意識の中では僕が意識的には思いも寄らないような異質なアイデアを、勝手に組み立てたりすることが出来るらしいのである。
もしも仮に、我々が自分自身を意識できないとしたら、つまりあらゆる場面で自意識的でない、ということだが、その場合にどんな弊害が起こり得るのだろうか。我々には意識がある。それはデフォルトとして自明である。しかし、あらゆる行動が実際は無意識が操作しているとしたら、生命体として死ぬまで生きる、という当たり前の生命活動に支障をきたすのだろうか、という問題が浮上する。
もしも意識が存在しない場合、我々の内省活動は無意識の領域のみでも実行されるのだろうか。自分が起こした行動を事後に振り返る、という意識的な作業も、実際は僕の意識とは無関係に、脳の中の“本人”が必要に応じて自発的に行うのだろうか。あるいは、僕という自意識だけが専有している作業なのだろうか。今時ならばfMRIを用いて検査すれば脳の神経活動のかなりの部分は判明するのかも知れないが、僕はあくまで検査機械なしで、推論だけで考えてみる。
過去の行動を振り返る、という作業を意識的に行う場合、その当時、選択できた筈の他のいろいろな可能性を想像していく中で、自分の採った行動が必ずしも正解だったとはいえないと自覚する。その中で人は悩み、落ち込んだり後悔して、精神的に不安定になったりもする。精神疾患が生まれてしまう原因の一端はこの後悔や落ち込みにあるようにも思える。そうなると精神疾患とは、実は意識の問題と深い関わりがあるように感じられなくもない。
我々には意識が与えられている。意識がデフォルトで機能しているということは、意識を持った者たちが、それを持たない者たちを凌いで、進化の過程で適応してきた証拠であるとも考えられる。だとすれば、生物の突然変異の中で、あるとき、意識を獲得した種が、それを有効利用する内省を独自に発展させて、後に何か重大な機能として確立させた、という物語が考え得る。
その機能とは何か。
わかりません。僕は自宅にfMRIを持っていないので。
とにかくも、意識的であるということそれ自体に生物としての優位性が発揮され得る、という仮説を検証してみるには、全ての行動が無意識でまかなわれ、本能に従った行動だけで高度な信頼性と正確性を担保して生存できている別の生物種と、比較考察してみるのが良さそうである。
前述のように生命は基本的に無意識で行動している。意識的である、ということは脳において余剰の機能であると仮定して恐らく間違いはないと思う。たとえ脳があったとしても、生命進化の初期段階では自意識の無い状態がベーシックであったと推測できる。何故なら意識を全ての出発点だと仮定すると、足りないものを全て意識的にそろえなくてはならなくなるが、不随意運動や反射行動が意識によって発明されたとはどうにも考えにくいからだ。そして仮説の命題に戻ると、長い進化の過程で意識を持つ者がより環境に的確に対応したということは、意識が単に事後報告を受け取る監査役であるという以上に、その生命自身に対し、何かしらの方法で行動にも介入していたと考えなければ説明がつかない。つまりこの監査役が居ることで無意識の“本人”はアドヴァンテージを得ていた、ということである。無意識の本人が採った選択に対して、監査役である意識はダメ出しをしたり、アドヴァイスを与えたりすることが可能な立ち位置にある、と推測できる。最終的な出力を意識が必要に応じてアレンジできるということだ。
ダメ出しやアドヴァイスが結果的にアドヴァンテージになったのは、環境や状況に対して複眼的な視座を持つことに意味があったからである。つまり人類はおそらく、生命活動に欠かせない情報の入出力装置として実装されていた脳に、複眼的視点を持って介入できる意識を発達させることで、自ら生活環境に新たなアレンジを加えることを可能にした。本能の生命活動と同時進行で追従する別の視座を背後に置くことは、単純に言えば二つのアプリケーションの同時利用に対応するソフトウェアを獲得した、ということである。現実と空想のあいだに往復可能な橋を渡した、と言えるかもしれない。
人類はこの橋を往復することで生活環境を能う限りに、高度に複雑化させていった。
意識を持つ生命体は何も人類だけに限ったことではないが、何故か人類だけが異常なまでに環境の複雑化を好んだ。単に心地よく生活できるという状況に留まることなく、さらに上を、そしてその上を、際限なく求めていった。極端な例を挙げれば、人類はあの、空に浮かぶ月にまで自ら到達し、そこに足を降ろし、それでまた地上に戻るという意味不明な旅を実行し、成功させたのだ。そこには監査役のダメ出しやアドヴァイスというレヴェルでは説明のつかない、もっと異質な次元の視座があったからとしか思えない。
人類の意識にはいつの頃からか、未知の領域へ積極的に分け入る“探究”の視座が備わってしまったようである。それは元の立ち位置に戻れない状況すらも良しとする、ある種の逸脱を含んでいた。
生存という原初的欲求のうえに、探究という新たな視座を付加することで、人類は実質的に現状維持という枠を超越した。
探究の本質はTry and Errorである。それを際限なく繰り返すことが出来る余剰を獲得できたことが、実質的なクリティカルポイントだったのではないか。その余剰とは、生産物の方ではなく、脳内における追加のレイヤーであり、つまりは監査役の上司である。
我々の脳活動には無意識を監査する意識が内在していて、本能の生命活動を下支えしている。さらに、生存には直接的に意味を成さないけれども趣向性の際立つ、冒険的な発想を促すことができる余剰の視座、言ってみれば“超本能”をも内在させている。興味深いのは、意識的な内省によって創造的発想が生まれるのはもちろん、寝ているときの夢のような無意識的な内省活動においても脳は創造的な挑戦を続けていることである。
その内省活動は本能的な生命活動を根本的に超越し、本能では収まりきらない枠外の行動プランを空想から発見する。空想のディテールがより明確になるにつれ、生命活動の上層レイヤーにある枠外活動は、個人の全身全霊を持って実現へと促され、僅か1.3kgの脳から発生される強大なトルクがモチベーションを支え、そして遂行されていく。
人類の行動癖が明らかに他の動物とは異質であることをイメージ出来たところで、やや長すぎた前振りを閉じ、自由意志の問題に戻ろう。
我々が自らの自由意志で選択しているつもりのほとんどの行動が、実際にはそれに先行する“無意識に意志”によって既に選択されている、というのが科学的に正しい事象とするならば、その無意識の意志とは一体どこのどいつなのか、というのが根本的な疑問だと前述した。それが宇宙のどこかから介入を受けている、というファンタジーを展開したいわけではない。とは言え、無意識の意志はあくまでもその個人の脳内の、意識以外のレイヤーによって発動していると想定する以外に仮説の立てようがないのだが。
考え得ることは、脳のワークフローの低燃費化と高効率化を目指した度重なるアップデートである。例えば現在、半導体やプログラミング技術の発展で人工知能の精度が劇的に向上しているが、それに伴って自動車の自動運転技術なども劇的に進化している。アルゴリズムが高度化するに従ってプログラムはその実力を向上させ、複雑な挙動も自動で制御可能になる。精緻なアルゴリズムと無数に並列するプロセッサが、一歩先の未来の世界と、そこを通過する自分の立ち位置を的確に予想して、プラン通りに行動できれば、システムそのものに実用性と信頼性が担保される。この自動運転を開発しているエンジニアたちは、きっと人間の脳の仕組みからヒントを得ているに違いない。
これとほとんど同じ仕組みで、人間の個人的な経験は記憶として脳に蓄積され、それが増していくに従い、古いアルゴリズムは刷新され、個人の潜在能力は以前に比べてバラエティを増していく。アップデートされたアルゴリズムはワークフローとして無意識の枠に落とし込まれる。脳は無意識の行動制御を出来るだけ正確にこなすことはもちろん、多彩なヴァリエーションを内包することで、個人の活動をより低燃費に抑えることが出来る。意識的に考える必要が無くなるからである。そのことで得られる余剰で、個人は超本能を活用し始める。
我々の生活における様々なワークフローは脳の自動運転によってなされ、よりスムーズにルーティンをこなすことで、我々は新しい思索、探究という“別枠”にエネルギーを投資できるようになる。我々が毎朝の通勤で、駅のホームまで考え事をしながら問題なく辿り着くのは、まさにこの仕組みによるのだろう。経験値に裏付けられた最新アルゴリズムの自動運転と、超本能による思索探究である。人間の実生活においては太古の昔から実装されている戦略である。
人間の脳は数十万年あるいはそれ以上の歴史を経ている。人類がこれまで重ねた経験値は、記憶の中で精製され、その都度アルゴリズムを刷新し、ハードウェアとしての脳と身体もそれに合わせる形で対応し、双方に密接な連携が実現されてきたはずである。この戦略がより優れていたのかどうかは分からないが、強い探究心のあるホモサピエンスがたまたま、より環境に適切に対応できたのであろう。脳は膨大なソフトを抱えたハードウェアであり、人間の日常生活におけるほとんどあらゆる行動を自動制御できるプログラムを内蔵している、と考えてきっと差し支えない。つまり人間は意識の介入を受けなくても、基本的には自分で自分を自動運転できるのだ。
人間は歳を重ね、経験を蓄積することで、自動運転の稼働割合を増やし続けている。そして定義上、自動運転は意識的な操作を必要としない。何故なら自動だから。凄い能力ではないか!基本的には意識的な操作の必要がない自動運転を要所で監査をする目的で、半歩後ろで並走状態にあるのが意識と言えるかもしれない。
コーヒーか紅茶か、という選択は成熟した人間にとってもはや自動運転のレイヤーに収められていて、意識は単に事後報告しか受けていない、という理屈である。そこでダメ出しして、選択を変更したければそうすればよいだけだ。
我々が自分の意志で自由に行動を選択している“つもり”にさせる、この意識。これがあるおかげで無意識の自分の行動を監査するだけにとどまらず、ときには生存と直接関係の無い創造性を志向して、その探究に没入することが出来る。そして実際はどうやら無意識の状態でも脳は創造性を志向し、Try and Errorを実行している。総じて考えると、脳活動が意識的であるかどうかには、我々が信じているほどの権威があるわけではなさそうである。意識というレイヤーは、Try and Errorに対して方向性を志向するために生まれたのではないか。志向する内容が複雑化する中で、脳自身の監査は徐々に自意識的にもなった、という経緯である。
生存本能の上位レイヤーである“超本能”が創造性を要求している。それを全面的に支える内省活動に、我々の“自由”が実際に有るのか無いのか、それが重要なのかも知れない。創造性も、元を辿れば個人の過去の経験に由来するのであろうから、全ては記憶次第、と考えがちだが、創造は既にあるアルゴリズムの内側には無い。直感に従って過去を解体できる自由を獲得しなければ、創造は実らないはずだ。結局のところ自由とは、先行する者のある状況から抜け出し、過去が現在に混濁する渦の中に自らを単独でそこに置く、という状態である。
人類の歴史の中で、竹トンボを発明した何処かの誰かは、どうやってその創造的な発想を得たのか。それを実際に作ったところで決して空腹は満たされないような玩具でさえも、実体化しようとTry and Errorを繰り返したことは、そこに明確な理由があったというよりもむしろ、脳が自ら獲得した特権である超本能の出力に大きなトルクが掛かった、それに尽きるのではないか。竹トンボの開発理由をステイトメントとしてまとめたところで、人類の価値が上がるわけではない、と正直僕は思っている。むしろヒトであることを自ら堪能するためには、竹トンボで遊ぶことだし、さらに楽しい玩具を創ることだと僕は信じている。
超本能を駆動する力は人類の歴史において、わりと早い段階で実装されたのだろうと思う。何故というに、正義や善や倫理という人間特有の価値体系は、実質的にはおそらく創造性の後に芽生えるからで、つまり、超本能の創造性が人類をして行動範囲だけでなく価値体系においても視野を拡張させた要因と見えるからである。逆説的には、超本能それ自体に善行もへったくれもない。創造性を求めて思い付いたことが倫理的に問題あるかどうかは想定外なのである。
さらに厄介なことには、その超本能で実現できてしまう事柄が自分以外の全てを道連れにして、元の立ち位置に戻れない状況にしてしまうことに、創造性は責任を持たない。人間の大きな欠陥はむしろ、この無責任な行動規範に自分自身で歯止めをかけられないことだ。
実際に人類はこれまで数え切れないほどの間違いを決行してしまった。それは根本的に今も変わっていない。歴史を振り返ると幸いなことにはそれらの間違いに気付く人が現れて、社会を修正する動きを作ってきたが、社会が元あったように戻るわけではなく、起こされた変化にどう馴染むべきかを見定める、というような修正に過ぎない。もちろんそれらの修正によって現代の我々は安心して今日を生きることが出来ている。人権を掲げ、憲法を制定し、国家間で協力できているのは、間違いを修正してきたことの成果である。
世界を変えてしまうような大きな事柄に限ったことではなく、日常の些細な事柄でさえもヒトの振舞いは基本的に無責任である。自分が今している行動に個人として逐一、後始末をしないのは、あらゆる生命が根本的に生存の競争の渦中に有るからだろう。自分が何を引き起こしているのかを実際には把握しきれない。むしろそれを把握させないのが世界の立ち位置だったのかも知れない。探究を続けるほど世界はその広さを見せつけ、深さを顕わにしてきたが、今やヒトの振る舞いは着実にこの世界に対しての影響力を誇示している。
人類は本来のヒトが持てるはずの力よりも遥かに強大なエネルギーを扱うようになった。力は、それが大きくなるにつれ、誰にコントロールされるかが重要になるが、民主主義の三権分立のようなお互いを監視し合う構造をヒト個人は持っていない。自身を監視できるのは経験を重ねた自分の意識だけである。
17世紀初頭、宗教的な理想に燃えて新大陸に移り住んだ人々が、新しい社会を建設するために結局は大量の奴隷を使役させた。当時、建国に関わった者たちが奴隷の売買に罪悪感を感じていなかったわけではない。むしろ自覚しつつ、目先の目的のために目を瞑った。悪いと知りつつも、自己実現の遂行のために他者の尊厳を犠牲にしてそれを実行した。現代社会に生きる僕もあなたも、自分の自己実現のためにどこかでは目を瞑っている。そして他の誰かの自己実現のために利用されてもいる。そのことを知らないわけではない。現代に生きる我々は、いくら潔白を訴えようが、少なくとも将来の人類の犠牲の上に今日を生きている。
人類の行動はとても危ういところ逡巡している。核弾頭を積んだミサイルがこの世界に数千発も保管されているという事実を想うだけで、僕は将来をイメージしづらくなる。問題を解決する手段があるのなら、誰かに任せたまま呑気でいられるが、事態が急変したときに、僕には対応策が全く無い。代替エネルギーの問題も解決の兆しは見えないから、クルマを使うのも心のどこかで希薄な後ろめたさを感じるし、石油製品をむやみやたらと使い捨てにする状況に淡い戸惑いを覚える。あした石油が無くなっても平和に暮らせる手立てがあるのなら、僕は不安なく今日を生きられるが、実際は一切のプランも無いままに今日を無関心に生きるしか手立てはない。世界は核弾頭を発射しなくとも、もはや十分に住みづらい環境になっているのに、そのことを口に出しづらい。原理主義だと疎まれるから、というよりはむしろ、自己否定に埋没してしまうからだと思う。だから不安に捕らわれ過ぎないように心掛けているが、結局そのことが自分の限界に輪郭を与えてしまう。常に有限であるのは生命ばかりでなく、精神の糧もやはり有限なのである。いづれ底を突く化石燃料は、もうすでに世界をいつでも危機に陥れる状況を整えてしまった。それでも注視しなければいけないのは経済だと言い張って、大人たちはビジネスに邁進する。単に出生率を見るだけでも、世界の平均気温を見るだけでも、不吉でしかない。これが我々の目指した良い世界なのだろうか。
シーソーのバランスを取るように、人類は右に左に立ち位置を調整しているが、実際に足元を見てみれば、僕らは沈みかけている筏に乗っているのかも知れない。オールを持たないまま興味本位で川下りを始めてしまった如くに。
流木がどこに流れ着くか、実際は決められた正しいゴールなど存在しない。それは流木が流木でなくなるまで、世界を彷徨い続け、循環に任せるだけである。
人類が長い時間をかけて、膨大な経験から積み重ねたアルゴリズムが、いかに精緻にいかに多様に装備されたとしても、どうやらヒトはこの筏から降りられないらしい。どんな時代にあったとて、社会を支配している世界観はいずれ刷新され、別の世界観に取って代わる。それはきっと人類が生きている間ずっと繰り返される。常識的に生きることが当たり前とされるが、その尊い常識こそが期限付きでしか機能しない。我々が正解を生きることができないのは、それが過酷そのものだと知っているからかも知れない。
創造性との向き合い方がいよいよ問われている、などと無責任に締め括っても自分も世界も何ひとつ変わらない。創造性とは自分に完全に回帰する落とし前込みの冒険である、くらいは言い切った方が良い。

