犬の系譜 其の壱

 僕が5歳の頃、うちに犬がやってきた。やってきたというよりも、もとはと言えば子犬を貰いにこちらから出向いたのだが。犬の飼い主を募る何かのイベント情報を偶然、母が新聞紙上で見つけ、母と小学2年の兄と三人でイベントが催される江戸川区のどこぞの小学校まで、仔犬を目当てに我々が出向いたのだ。元々、犬を欲しがったのは兄で、その兄はイベント会場でこれと眼を付けた白い雑種の仔犬の抽選にエントリーしたのだが、残念ながら抽選に外れてしまった。本来は一度きりしか抽選に参加できないはずなのだが、何故かうちの母は抽選券を再び手にしていた。外れ券をこっそり取り戻して消しゴムで番号を消したらしい。この逸話は40年以上経って兄から聞いた話だが、そんな小技があったこととは露も知らず、とにかくも目当ての仔犬、ではなくその妹犬の方を兄はゲットしたのだった。妹も白かったが、お兄さん犬のように鼻が黒ではなく、赤茶色だった。赤茶鼻の仔犬を紙袋に入れて、そのまま国鉄総武線に乗り、親子三人犬一匹で悠々と座って飯田橋に帰ったことを覚えている。

 当時は駅の改札口には必ず切符切りの駅員さんが、五右衛門風呂よりは少しゆったりできるようなお湯無しの湯船に入って、乗客の切符を一枚一枚ハサミでパンチしていた。現在の自動改札よりも速いということはないが、さりとて自動改札に劣るとも思えない驚異的な職人技で切符切りをしていた。なぜ脅威的かと言えば、ほんの僅か一瞥でキセルすらも見破っていたからである。

 貰ってきた犬は本当におとなしく、指図したわけでもないのにすぐにお座りをして、こちらの様子を静かに窺う、少しばかり臆病な犬であった。父がポケと名付けた。ポケ―っとしているように見えたから、というなんとも粗末な名前の由来だったが、名前の響きとその由来とは、意外にもほとんど無関係かのようで、ポケという名前に誰も反対することなく、皆すぐに馴染んで呼ぶようになった。

 兄が良く出入りしていた仲良しの同級生だった小川君の家は、地元では良く知られたお風呂屋さん、つまり銭湯で、湯を焚く材木がたくさんあったからなのか、小川君のお父さんがポケのために犬小屋をわざわざ手作りしてプレゼントしてくれた。棟木には桜の枝が使われていて、女の子だからと屋根は赤いペンキが塗られていた。小屋の入り口上に備え付けられた表札には母がでかでかとカタカナでポケと書いた。そのおかげで家に遊びに来る友達の誰もが、最低3回は用も無くポケと呼んだ。雷が恐かったり、冬の寒さも殊のほか苦手だったポケは、家の中の玄関脇に毛布を敷いて過ごす日も一年の内に幾度かあったが、飼い始めてから3年か4年程して、ポケは家族と一緒に家の中で暮らすようになった。

 犬が日本語の語義を解するとは思えないが、同じ哺乳類として人と犬は気持ちや意思をお互いに感じ取れる。何せ犬は人と暮らすこと数千年のベテラン選手である。自分の立場もよく心得ているようだ。何かを訴えるときは犬も声に出すが、その声は言語における言葉ではなく、感情の発露として、あるいは何かを知らせるための合図としての表現だろう。散歩の途中で誤って首輪が外れると、大人しいはずのポケは毎度のこと一目散に逃げだした。こちらが走って近寄ると同じ速さで逃げて、同じ距離を保つ。一度逃げるとお腹が空くまでは絶対に捕まらないし、家に帰って来ない。一通り近所で遊んでから、晩ご飯を食べに帰宅するのであるが、自分では家の門を開けられないので、門の外から「ワン」と一鳴きするのが常だった。

 ポケは僕が20歳の時に亡くなった。その日は土曜日だったのか、何故か父以外の三人、江戸川区に貰いに行ったときと同じメンバーで今度はポケを見送った。

 ポケは亡くなった日の早朝、庭に出る戸の前で倒れていた。その時すでに瞼を閉じることさえも出来なくなっていた。意識は既に朦朧としていたのだろう。戸の前で倒れていたのは用を足したかったからである。普段であれば戸をガリガリと引っ搔いて、トイレタイムのアピールをするのだが、夜中だったためにガリガリ音に家族の誰も気付けなかった。その音もきっと弱々しい音だったのだろうと思う。ポケが倒れていたその脇に無念の便も横たわっていた。ただただ苦しそうに呼吸をするだけで、それ以外には何もできず、時折咳込んでいたが、瞼すら閉じられない、意識も定かでない状態で咳をしているのが本当に苦しそうだった。

 冬だったのでひとまず毛布に寝かせ、柔らかい掛け布団でなんとか保温してあげた。僕ら三人がお昼ご飯を食べ終えて間もなく、ポケがまた咳の発作に苦しみ始めた。その時はもうほとんど呼吸が出来ず、酸素も充分に吸えないような状態になっていたと思う。回復する見込みも無かったのは見て取れたし、恐らく今日が最後の日になるだろうことは僕自身、薄っすら感付いてもいた。

 体力的にはすでに限界を超えていたであろうにもかかわらず、ポケは必死で酸素を吸いこむべく、咳の合間に呼吸しようとするのだが、咳の発作が起こると次から次へと咳が込み上げるので息は吸えず、吐き出す息すらも肺に残らない事態になってしまうので、そのまま窒息状態に陥ってしまう。時間にして数分、あるいは数十秒だったかも知れないが、その時は僕もどうにも見ていられず、たまりかねて思わず言ってしまった。「ポケ!もう頑張らなくていいよ!」

 ハッと我に返ったように、ポケは僕の声を確かに聞き取った。ほとんど消えかかっていた意識の中で、僕の声はポケの意識に僅かながら届いたようだった。その反応はとても弱々しいものだったが、一瞬、虚ろだった眼の瞳孔がほんの僅かに縮んだ。そして咳は止んだ。ポケは自分の力が尽きることを確信したのか、眠りに入ることを受け入れたのだ。ポケは呼吸を諦めた。呼吸しようとすることがかえって咳を誘発していて、呼吸を止めたことでほんの一瞬、最後に息が吸えたようだった。しかし次の瞬間、ポケの心臓の鼓動は急に速さを増した。身体も眠りに入るために呼吸を諦めようとしていた。そして極めて浅い呼吸を一度だけ、そのあとは鼓動も徐々にゆっくりになって、あっという間に数秒に一度というリズムになった。呼吸が枯れてしまってからほどなく、ポケの鼓動も停止した。

 僕はずっとポケの脇に手を当てて脈をとっていたが、最後の最後に、トクン、と静かな脈を打ったのを最後に、ポケの心臓は鼓動を止め、ポケは亡くなった。

 僕はポケの胸に顔を押し付けて泣いた。

 10歳を過ぎた頃あたりからポケは子宮に腫瘍を抱えて、完治しない病気と共生することになった。腫瘍が転移していたのか、臓器の不具合は子宮だけにとどまらず、いつからか腹水も溜まるようになり、だんだんと膨れるお腹は風船のようにパンパンになるまで膨張した。本郷にある東大の動物病院に通って、定期的に腹水を抜く処置をしてもらっていたが、服薬を続けても症状が無くなることはなかった。やがて呼吸器官にまで病気は進行し、亡くなる直前はたびたび咳の発作に苦しめられるような日々を送った。

 ポケはとてもおとなしい穏やかな性格の犬だった。自分にとっては妹みたいな存在だったが、今思えば亡くなる頃はすでに老犬だったから、僕より年上だったのかも知れない。僕が5歳の頃からずっと一緒に暮らしてきた家族である。ちなみに僕が小学校低学年のころまではポケは僕を下に見ていたようだった。家族の序列では兄の下の長女で、僕は長女の後だったらしい。

 ポケが亡くなった後は、実家で犬が飼われることはなかった。都会で犬を飼う場合、当然ながら放し飼いにするわけにはいかない。毎日、朝晩の散歩はそれなりに時間を要する。僕は大学へ毎日往復5時間かけて通っていたし、兄はそろそろ就職で、いつ実家を出てもおかしくない立場だった。犬の寿命を考えると、それからの15年をしっかり面倒見切る責任を負うことが、家族の誰にもできなかったのだ。犬を飼うのは孤児の里親になるようなものである。家族の幸せな暮らしに責任を持てないようなら、里親にはならない方が良い。今年50歳になる僕は子育てを経験できなかったが、そんな僕でも犬を飼うことの苦労を知ることが出来た。自分自身の子供と犬とでは、もともと比較する対象にはならないと思うが、人と犬とは数千年来同居してきた歴史がある。ポケは僕の幼少期から青年期を共に過ごした姉弟で兄妹だった。家族のうちに喧嘩があると、ポケ自身もそわそわし、ときに喧嘩がエスカレートするようなときは、鼻を鳴らしたり、吠えたりしながら宥めようとしてくれた家族の一員である。当時は何も気づいていなかったが、ポケが僕ら家族に与えてくれたものは、ポケを散歩に連れていく面倒とは比較にならない豊かなものだったと実感する。時は決して遡れない、ということを考えると、母が不正を働いて掴んだチャンスとは言え、うちの家族にポケを迎えられたことは、何物にも代えられない幸福だった。