芸術と創作

我々、現生人類であるホモサピエンスに限って言えば、創作行為は生きる上での本能的欲求と言える。この欲求には人によって強弱があるようで、創作意欲の満ち溢れている人もいれば、おおよそ無関心な人も少なくない。

人間の本能について考えるときに、睡眠欲、食欲、性欲は最も根本的な欲求であるが、今日では睡眠欲に関して、脳の意識の機能として、欲求に分類しないという見方もあるようだ。確かに睡眠に関しては食欲や性欲のように必要以上に過剰に貪る、という現れ方はあまり聞かない。注意すべき点は睡眠も食も性も、ある程度は自身の理性で制御することが大切になってくることだ。何かを過剰に貪りたい衝動に駆られる場合は、日常生活に不均衡な要素が内在している場合が多い。

我々の持つこれらの三つの欲求は生存に関して最も根源的な要素であるが、社会生活を営む現生人類にとって、これら以外にも多くの要素が欲求として我々に日常生活に関わっている。集団生活も欲求のひとつに分類されるようだし、承認欲求という言葉はSNS時代の今、頻繁に聞かれるようになった。それ以外にも例えば、食べ物や人間同士の好き嫌いも生来の要素かも知れないし、見たり実際に経験すると興奮するものや、逆に嫌悪感を覚えるものも、動物としての生存戦略に関わる要素であるのは間違いない。子供の頃、遊園地に行けば自分の好きなアトラクションと、反対に嫌いなアトラクションがあって、ドキドキワクワク興奮するものは何度でも満足することがないほど飽きないが、一方で苦手なものは近寄り難く見るのも嫌であった。

僕自身はかつて稲づくりに熱中した経験がある。欲求の話とは脈略も無いと感じるかも知れないが、この稲づくりの経験を通して実感した勤勉あるいは上達への欲求ほど、純度の高い紛う方ない本能的欲求だと実感したことはなかった。この充実感に勝るものを感じた経験は今のところない。

食欲があるのは、とにかくも日々エネルギーを摂取しなければ自分自身に明日は無いのだから、他のいかなる欲求よりも優先して実感されるべきである。しかしその、腹に入れる食料そのものは降って湧いて出るものではない。自分で見つけて生け捕るか、農耕作業で生産するか、経済の仕組みが機能しているのならば何かと交換して得るか、のいずれかだ。数千年来、日本人は稲づくりを民族の生業としてきたが、日本人としてこれほど充実感を得られる経験を僕はそれまでに経験したことがなかったし、今でも稲づくりの経験を超える純度の高い充実感を味わったことがないのは前述した通りである。

一方で文化的活動における創作欲求は、我々人類の生存戦略としてどういった必要性があるのか。言葉で書くと途端に興ざめしてしまいそうな表現であるが、音楽も舞踏も絵画もあらゆる伝統芸能も、我々人類の創作欲求に由来している。それらの創作は作品として形作られ、我々の生活に浸透する。生活に浸透する作品が何故、我々の本能的欲求の一部として形成され、世間に必要とされ、あるいは生存戦略にとって優位な要素となるのか。僕はそのことを理屈として頭で理解することが出来ないでいる。

端的言えば、彫刻制作を、稲づくりと同等の純度で必要性を実感できないが故の、欲求不満なのかも知れない。

養老孟司さんは芸術は都市生活の解毒剤と言った。つまりそれは芸術と相反する要素が社会に蔓延したときにシーソーのバランスをとるように芸術が興隆する、という理屈である。なるほど芸術と真っ向対峙するものが蔓延し過ぎて、社会全体の健全性が保てなくなりそうなときには、芸術は社会の毒素を中和して人々の社会生活を健康的に戻してくれるのかも知れない。

芸術とそこに対峙するもの、養老さんはその対立項を感覚と理屈、と表現した。社会全体に適度な纏まり、健全性を得るために、共通理解と共感はきっと役に立つのである。しかしこれらは社会全体を前進させるミッションを背負っている、というほど大袈裟なものではないと僕個人は考えている。共通理解と共感は、様々な矛盾を内包せざるを得ない集団生活を程好く纏めるための調味料的な要素であって、それ自体は食材ではないと僕は捉えている。

社会の規模が大きくなればなるほど、集団を纏め、安定性を維持することは難しくなっていく。社会の拡張に伴い教育の普及は必要不可欠になった。町は都市となり、インフラが整備され、日常生活のあらゆる習わしはより効率的に稼働する機構に刷新され、それが更なる社会拡張へ繋がっていく。この拡張こそが他の動物たちとは違う我々人類が育んだ特異な生活形態であり歴史である。この地球という惑星に生存し続けようとするたくさんの生命と、もはや異質な存在になりつつある我々人類が、これまで経過した時間と同等のスパンで将来を見据えると、この惑星で生き続ける戦略的プランを我々人類は全く持たない。人類の繁栄、社会の拡張は、ひとえに我々の生来の欲求が成し遂げた結果である。その欲求はこの惑星との共存を主眼として我々に備わったものでないことは明白である。問わなければならないのは、人類社会の将来像も配慮した、我々の生来の欲求との向き合い方なのであるが、人間が悟りに到るのはほとんど奇跡の成せる業であって、明日の予定なら気に掛けるが、地球の明日を危惧できるほど我々は賢くいられない。

2024年現在で世界人口は80億人をすでに突破している。いわゆる先進国が有する生活レヴェルを世界の80億全ての人に行き渡らせることは原理的に不可能である。食料も足りないだろうし、化石燃料も足りない。それどころか地球温暖化で人類が生存できない環境になってしまうかも知れない。世界が平和であることは多くの人の望みであるが、一方でこの惑星にも人類を許容するにあたって数量的な限度があるのは自明であって、このままでは地球資源が枯渇するか、環境が我々の生活維持を不可能にするまで悪化するか、あるいは人類同士の結束が飽和状態に至るか。いずれにせよ、今ある地上の均衡は破綻するに違いない。

総人口が今の一千万分の一まで減るとすれば、地球上の人口はおよそ800人にまで減ってしまう。そうなると種としての存続危機に陥るだろう。緑が生い茂る森も、一旦砂漠化してしまうとそこには植生が戻らない。森が自生することはその場所に十分条件がデフォルトとして存在しているわけではなく、森が生きて新陳代謝することが森自体の生存を担保する、という絶妙な平衡状態によって支えられているので、森が無くなると、森を維持する条件も同時に消失してしまう。つまり云わんとするのは、人口減少はある規模を境に、人類が人類を維持できない状態に陥るはずなのだ。

人口が一万分の一まで減少すると、総人口は80万人になる。この程度であれば人類はこの惑星でしばらくは謙虚に生きていられるだろうか。

創作の欲求は我々の根源的な要素であるのは間違いないが、調味料程度にしか我々の生活に変化をもたらさない。それはそれで良いのである。芸術こそは人類にとって必要不可欠な文化であるなどというデマを吹聴する方が余程あくどいとさえ言える。塩は貴重なもので古代ローマでは貨幣のように物々交換の仲介役を担ったほどだし、塩を畑に播くことで敵地を飢餓に貶める軍需としての側面も担った。細胞内の水分に塩は不可欠で、体温調節の発汗もこの塩分抜きでは作用しないが、そもそも人間以外の動物が塩を舐める必要が無いのは何故だろう。食べる食物の中に有る塩分だけで足りているということではないだろうか。だとしたら我々人間も、わざわざ精製してまで塩を作る必要はないのかも知れない。厄介なことに人間は食事を楽しみたいという欲求からか、食料を調理し、調味することを知ってしまった。

人口80万人の総人口であれば、食料を調味することは後回しにされるかもしれない。創作の欲求は無くならないが、美術品の売買はする必要も無いだろう。洗うものは精々足くらいなもので、お金なぞ洗うまえにそのものが無くなってしまうかも知れない。

塩分を食物から摂取する以上に、余計に精製するのは必要以上の営みであるのと同様に、芸術もそもそも作品に仕立て上げる必要性は無いのだろう。つまりは必要以上の営みなのである。ならばそれに従事する人間は相応に慎ましくあられねばならないのだろう。芸術に携わる自分としては、世の中が過度な理屈の蔓延に困惑しているとき、それを緩和させるべく作品をもって世に問うのが、言っていみれば仕事なのかも知れない。世の中が適度な理屈で順風な状態であったなら、武士は食わねど高楊枝宜しく、清貧を誇るしかないが、剣の腕前は常に磨いておらねばならず、制作は一時も疎かにできないのである。

随分とややこしい言い訳になったが、つまりは今日も呑気に芸術家なのだ。