言葉を持たない動物が、愛や幸せを本当の意味で解っていると仮定するなら、明らかに彼らはそれらを極端に深くは追い求めていない。そう考えると、言葉は悟るための道具ではないらしいことが見えてくる。

何か思わぬ失敗をやらかしたり、謂れの無い不運に遭遇してしまうと、僕自身は根拠も無いのに、何かのバチが当たったに違いないと因果関係を求めてしまう。

美しいものを美しいと感じることの本質は、理論体系に頼るのではなく、人類が重ねて来たであろう経験の記憶を呼び覚まして、個人個人がそこに輪郭を与えられるかどうかなのではないか。

向田邦子さんの素敵なポートレイトを撮影された彼女のフィアンセが、向田さんに持たせたBarnack III型、あの写真が撮られていなければ僕はきっと、一生、このIIIaを手にすることはなかったと思う。

作品の“意味”を定期的に問われるのは、何かしら意図を持って僕が制作に挑んだのだと思われるからに相違ない。人間の行動には意味がある、のかどうかは知らないが、そう考えたいのが人間である。

その世界で頂点が在るのであれば、頂点の存在はその下の重厚な土台、膨大な堆積物を必要とする。堆積物の量が膨大であればあるほど、頂上は羨望の眼差しで仰ぎ見られることになる。

数え切れない人々が駅構内の乗り換えや出口へと縦横無尽に行き交う。全ての動きは悉く一直線だ。どれも限定的決定的で、時間軸にも進行方向にも選択肢は無い。効率化と合理性は知らぬうちに僕の呼吸を浅くして、僕らの日々は気付かないうちに朦朧としている。

ジョジョの生き方は、この御時世では時流にそぐわない身勝手なそれだったと判断されるのは仕方がない。しかし、ジョジョの、犬としての本能から言えば、ジョジョは犬としての誠を貫いたのだろうと思う。