生活と主義
人類が生活圏を拡散し始め、人々が世界中へと散らばったその中から、肥沃な土地を発見した者たちが定住生活を発達させた。自然の恵みが人々の生活をより安定化させ、好奇心が旺盛な人類は、知恵や技術をも育み、自分達自身もある意味では豊かに成長させていった。経験や技術、新たな発見と発明を積み重ね、余剰を生産することの意義を発見した人類は、その余剰生産物を、異なる地域の生活圏にいる者同士で交換し始めた。
人類の文明や文化的進化には大まかな潮流が見て取れる。家畜を生活に取り入れる時期、農耕を始める時期、宗教の発展、哲学の興隆、文字や貨幣の発明、と言った具合に、文明や文化の初期段階には新しく誕生してくる要素を積み上げる様子が見て取れるが、それらのそれぞれが、大まかに見れば、世界中でおおよそ同時的に興隆しているように見える。地域間あるいは民族間で、より先行している者と遅れている者の違いはもちろんあって、あまり肥沃でない土地に留まった者たちは、肥沃な土地の者たちの生活のようには発展しなかった。
肥沃な土地で文明を築き上げていった者たちが生産物を交換し始めると、物々交換の中間に貨幣を介在させる枠組みが発明された。貨幣誕生の初期段階では、その必要条件から、貨幣そのものに物質的価値が内在していた。つまり銀貨や金貨であり、貨幣そのものに価値があるという前提が、物々交換の仲介を可能にしたわけだ。最も初期の段階では貝殻などを用いていたそうだが、人類が金属が扱えるようになってからはそれが取って代わった。そしてついには貨幣そのものを流通させるアイデアが誕生するのだが、それはまだだいぶ後になってからの話である。
他国で生産されたものを手に入れるためには、銀貨や金貨を必要とする。あまりたくさん買い物をし過ぎると、貨幣が底をついてしまって、自分の手元に貨幣が残らなくなってしまうから、買うことと同時に売ることも自然と必要になる。こうして貨幣が一か所に固まってしまうことを解消することができる。今日は買い手だった人が明日は売り手になっているわけである。買うばかりでなく、自分自身でも何かしら、交換価値のある物を生み出すことが必要になった。
ところで銀貨や金貨はそう簡単には増やせない。農産物のようにその季節になれば実るものではない。それぞれの国は生産物を増産するかたわら、金貨や銀貨も常に増産していったのだが、世界中に存在する“交換価値のある物”つまり商品の総量と、その時点で存在していた金貨や銀貨の総額は、決して釣り合うことはなく、貨幣の総量は圧倒的に足りていなかった。そして世界はいつしかデフレーションに陥る。国の王様が市民にたくさん労働させて、その対価を支払おうとしても、給与として支払いたい貨幣そのものが、貴金属の不足で作れないので、結局、給与を払えない。市民は貨幣を持てないので商品を買うことが出来ないが、小麦は例年通り豊作で、買い手を待っている。しかし一向に買い手は現れないから、商人は小麦を値下げし、なんとか売却を促して商品のだぶつきを抑えようとする。小麦は例年通りの高品質なものであるにもかかわらず、貨幣が足りないという理由で、小麦の価値を不当に下げられてしまう。
そういう事態を改善すべく、交換価値のある商品と同じ分だけの貨幣を準備しようとすると、金や銀だけでは当然ながら量的に釣り合わなくなり、いつしか国はより簡単に製造できる貨幣を導入し始める。金や銀のような貴金属ではなく、時間と共に劣化する卑金属を使うようになった。その流れが加速すると、今度は貨幣の量が必要以上に多く流通してしまい、貨幣のありがたさは下落してしまう。
元々、商品と交換することを目的とした貨幣だが、商品というのは一般的に、消費者にとってありがたいものであることが何よりもまず必要な条件だ。それらの商品といつでも好きなときに交換が可能な貨幣も、商品と交換可能という性質そのものがとてもありがたい。だから貨幣も、ある意味では簡単に入手できるものであってはならない。しかし、国の王様は自分のために多くの市民にたくさん労働させて、その褒美として、つまり労働の対価として、給与を貨幣で与えてしまう。すると給与として配布した貨幣の量が、その年の国全体の小麦の収穫量よりも多くなるという事態が起こってしまった。皆が貨幣を手にして、小麦を買える人は増えたのだが、相対的に小麦が足りなくなってしまったから、商人は小麦の値段上げて品薄にならないように対応する。こうして物価が上がって、貨幣の価値は労働そのものの価値よりも下がってしまう。いくら世の中にお金が有っても、市民にとっては肝心の商品が高額過ぎてなかなか購入できない、という状態に陥る。いわゆるインフレーション。
商人はいつもと同じ小麦を売るだけだが、顧客である市民が皆一様に貨幣を手にしてしまうと、そこに競争が生まれ、商人は小麦の値段を上げて対応する。この状態では商人が不釣り合いに利益を多く得て、一方で労働をした市民は何故か小麦が以前より買いにくくなってしまう。王様のために一生懸命働いても、一向に暮らしは楽にならない。なぜなら貨幣を持つ労働者の数よりも小麦の量が少ないからだ。自分の労働の価値に比べて、売られている商品の価格は不釣り合いに高額で、王様のために働いても、生活は逆に苦しくなってしまう。貨幣を獲得して商品と好きなように交換する特権やメリットよりも、商品そのものを交換によって他者から得るのではなく、自ら生産するほうが生活には有利だと、自然と気付く。
市民は王様のために働くことを辞め、自分で農地を開墾し、貨幣の遣り取りから身を引く。王様の望む仕事が滞ると、国のインフラ整備が滞り、国の発展は停滞する。しかも貨幣のダイナミックな流通も停滞しているので、他国との商品交換も難しくなり、国家としてハード面でもソフト面でも停滞を余儀なくされる。市民にとっては平穏な生活が得られたとしても、国としては孤立を余儀なくされる。いわゆる先進国に生活する我々からすると、これは由々しき事態だと心配するかも知れないが、アフリカやインド、南米アマゾンの極めて限られた地域には、生活に貨幣を用いない民族も現存している。ニューギニアにも限られた地域で外国との関わりをほとんど持たずに生活を維持している民族がある。彼らと我々を単純に比較することは困難だが、とにかくも、貨幣を使わずに、経済発展から隔離したままで生活を維持するのは可能だし、その生活方法が根絶やしになっていない現実を見ると、経済発展が無くても生きることに対する当たり前の悦びが得られることは確認できる。
一方の貨幣経済においては、他国との交流を介して国の継続的な発展が望める。貨幣を導入しているにも拘らず、国の発展が滞っている場合は、前述のインフレやデフレのようなアンバランスがどこかに生じているのかも知れないし、国の生産する商品に何かしらの欠陥があるのかも知れない。しかし、経済は発展しなければ意味が無い、ととらえるのは尚早で、世界の富の総量が見えつつある現代では、実際的には貨幣を無闇に増やせない、という現実とせめぎ合いが生じている。富の減少に対抗するためには地球資源の搾取に頼るほかはなく、我々が現在、余剰の富として扱うものの大半は、石油や天然ガス、鉱物、レアアースなどの資源である。それらをあたかも自分が生産したもののように扱うことで、商品と貨幣のバランスを取っているが、地球資源が枯渇する頃には間違いなく、貨幣はその足場を失うだろう。つまり世の中から有難い商品がほとんど出尽くしてしまうと、貨幣は交換という自身の特権を行使できず、その安定性を失いかねないのだ。あらゆる商品が希少になる時代がきっと到来する。だから我々人類は、これから先の将来において、貨幣だけに頼らない生活を徐々に導入し、緩やかで大きな苦痛を伴って移行しなければならいのかも知れない。
物と物との遣り取りにおいて非常に便利で万能な発明のように見える貨幣だが、生活に貨幣を導入すると、デフレーションやインフレーションという不釣り合いが自然と生ずる。それを回避するためには、生活そのものを貨幣の循環の都合に合わせて、常に調整しなければならない。生活の設計は流動する貨幣を主体になされなければ、社会全体が立ち行かなくなる。貨幣経済は、生活における個人の自己完結を排除する仕組みであり、他者の成果を期待することが最も貨幣の能力と利便性を活用することになる。それが貨幣経済の素性である。皆が自給自足をして自己完結していたら貨幣の交換は生まれないから、このシステムからは除外されるし、逆に、このシステムを最も効果的に機能させようとする場合、自分以外の誰かに労働させて、自分以外の誰かに商品を作ってもらって、労働を購入し、商品を売却することである。
システムのなかに埋没して、自分自身は他者を操ることに専念するのが貨幣経済の根本的な利用法である。
資本主義とは、貨幣を生活に導入してしまった人類の、必然的に辿り着かざるをえなかった対応策のように見える。そもそも貨幣経済とは、経済というカテゴリーだけにとどまらず、それを導入すると同時に我々の生活全体を構築する戒律のようなもので、ほとんど世界の総枠として君臨し、生活の前提であり基盤と化す。貨幣を介した経済は、○○主義というイズムよりも先行する形で、生活それ自体を貨幣の流動を基準に設計する、というシナリオを我々に強いている。
現代では卑金属どころか紙で貨幣は製造されているし、それどころか物質としての実態を持たないクラウド上の貨幣まで存在するようになった。
貨幣が交換の基準に定めるのは、そのものの価値、つまり値段である。モノの価値は実際的な物質にも充てられるし、労働力にも価値が宛がわれる。そして人類は時間にさえ価値を見積もることを発明した。いわゆる利息である。そしてその利息そのものを商品として販売することにも手を出した。
あなたが今、自分の仕事の効率化、あるいはより高い収益化のために道具あるいは設備の導入を計画しているとする。それが導入されれば、今よりも収益は上がり、あなたの労働の報酬は現状の額にプラスαが加味されるはずである。しかしその設備購入に必要な肝心の資金が足りていない。そんな場合に、利息というプラスαを返済時に上乗せするという条件で資金を貸してくれる人間が現れる。それが金貸しであり、このことは貨幣そのものにも需要と供給が備わったこと意味している。
あなたは資金を借り受けることで報酬を今よりもアップさせ、報酬が上がった暁に借りた資金とプラスαを合わせて返済するという仕組みである。貨幣自体が時間という要素を付帯させて貨幣そのものと交換対象になったのである。金貸しは古代から存在し、今では銀行がそれに代わって、貨幣経済の最もベーシックな機能を請け負っている。
利息という概念は古代バビロニアのハンムラビ法典にすでに記載されていたという。紀元前1700年頃である。旧約聖書には同胞への貸し付けに利息をつけてはならない規則があり、異教徒への貸し付けに利息が付けられていた。新約聖書では高利貸が悪徳業者として批判されている。
世界がまだ無限の広さを保っていた頃は、異国間の文化交流によって世の中は右肩上がりに発展し続ける、という共通認識があったのだろうか。いずれにせよ、貨幣の発明とほぼ同時に、利息という概念をも発明し、市民がそれを受け入れていたというのは非常に興味深い。何故というに、利息は増えこそすれ、減ることはない。つまり貨幣は時間とともに増えるしかないのである。自給自足や物々交換において富の増幅という要素は無かった。利息による富の無限拡張に人は気づいていたのだろうか。ちなみに全世界のお金の量は西暦2000年から2020年までの20年間で、3.7倍に膨れ上がっている。そのすべてが利息によって生成されたとは言わないが、少なくとも世界中で膨大な額の貨幣が資金として貸し付けられ、それに伴って自動的に莫大な利息が世の中に生まれたのは想像に容易い。誰一人として資金を貸し付けすることがなければ、世の中には利息は生まれず、貨幣の量に増減は無いのである。
余談であるがエネルギー資源開発はこの数十年ほとんど一定の消費量を保っている。先の20年のあいだに、単純に全ての物価が3.7倍になったわけではない。膨れ上がったお金を誰かが独り占めすることに成功して、貧富の差が極度に拡大されているのが現代である。
現代において利息の概念はさらに拡張され、時間を経過したことによる価値は、貨幣そのものにだけでなく、特定の人にも与えられるようになった。特定の人とは、定期的な収入を見込める職業に就いている人のことである。安定した月給を将来的にも得られるだろうと判断された場合、将来の労働による給与を、前倒しして、今、資産の一部として数えることが出来る。今現在はまだ生まれていない価値を、在るものとして見積もり、その額に相当する商品を前倒しで受け取るシステムである。その代わりに将来の生活を今の時点で、ある意味では固定しなければならない。いわゆるローンのことである。
気をつけなければならないのは、貨幣を元にした取引では、商品と貨幣の総量が常にバランスよく釣り合っていることが大切で、そこにアンバランスが生じるとデフレーションやインフレーションが発生し、モノや貨幣の価値が不釣り合いに上昇したり下落したする。長い期間のローンを組んだ場合に、将来の物の価値の動向すらも固定してしまうが、実際はモノの価値も貨幣の価値も予測不能な振る舞いで推移するため、時間経過という利息を加味して組まれるローンが、実際の価値に等しい支払いになるのかどうかはほとんど博打になる。
ところで、そもそも貨幣は物々交換というシステムの潤滑剤として発明されたものだが、貨幣を利用した交換で、等価以上の利潤を生む場合、その交換の相手方には損を被せることになる。お互いが納得して物と物とを交換していた物々交換は、それが成立することがすなわち両者が等価であることを保証していたが、株などの金融商品を売り買いする場合に見られる利潤は、等価交換ではなくなる。何故、貨幣を通した交換であるにも関わらず、等価でないのに交換が成立するのだろうか。
一万円と書かれた商品を購入する場合は、一万円を支払わなければならず、八千円だけでは購入できないし、一万二千円を支払う必要もない。しかし、株の売買においては、一万円の株は先週まではたったの八千円だったり、翌月には一万二千円になっていたりするのである。時間の経過と呼応する利息とは、やや話が違ってくる。
元々、商品の価格は、商品そのものが持つ価値に基づいて付けられていたのは言うまでもない。労働に対して対価が支払われるようになったときも、その労働が持つ正当な価値に基づいて貨幣が支払われていたはずである。価値の基準は小麦であったり、塩であったりしたのかも知れないが、いずれも何かしらの現物が価値の基準として据えられていたのだろうと想像する。昨今の株価は簡単に乱高下するようになっている。その理由は、株の価値が収穫後の小麦のような現物を基準としているわけではないからなのだろう。
昨今、お金を銀行に預けても金利がほとんどゼロに近いので、長く待っても預金には一向に利息が付かない。資本を潤沢に持っている企業や個人にとってはそれをどんな形で運用するのか、というのも資産管理における無視できない側面である。力のある個人はもちろん、有力な企業、国家までもが資産運用そのものに投資して、スペシャリストに巧みな運用を任せている。
しかしながら前述のように、株取引には損を被る場合も同様に起こるので、金融資産はあえて運用しない、というのも一つの方法である。正解はない。
大切なのは、金融取引で大きな利潤を得ることが可能になった時点で、労働、あるいは現物としての商品の売買で報酬を得ることが、唯一の生活手段ではなくなったということだ。そして金融取引の場合、利潤追求だけがその目的であり、狙いとなって、商品のクオリティや労働そのものの質が問われるのと全く異なる状況が生まれた。利潤のみにしかインセンティヴが働かなくなるからだ。
例えば小麦を栽培する農家にとって、非常に安価な肥料は報酬増大の大きな手助けとなるが、その肥料を使うと畑がその後三年間は使えなくなる、という条件付きだった場合、その安価な肥料を使うことが圃場の質を悪化させ、将来的な収穫に悪影響を及ぼすので、結局はその肥料は使えないことになる。しかし、小麦の質や収穫量を問わず、ただその時点の利潤だけに注目する場合、栽培にどんな肥料を使用したか、その圃場の長期スパンにおける生産性などは一切問われない。おそらくそれが理由で現代の環境問題は起きている。つまり、金融取引の場合、あらゆるインセンティヴは利潤のみにあって、事実の背景を一切顧みない。自身が労働に従事している場合、労働環境や労働の質を問わないわけにはゆかないが、合理的な利潤追求だけに着目する場合、生産や労働のディテールに一切注目しなくとも取引は可能である。詳細を知らないがゆえに間接的にすらも痛みを感じないから、無傷で利潤を得ているのだと勘違いするようになる。しかしどんな形のアクションであれ犠牲は付いてまわる。
我々が一歩を踏み出すときには、必ず自分の体重を前に放り出すだけの力を、元居た場所に残していかなければならない。何の犠牲も無しに前進できる世界など無い。どんな取引であれ利潤だけを得ているという判断はただの勘違いである。
人類の歴史において、人々は決して意図的にそれを選択したわけではないが、結果的には自然を傷つけ、資源を犠牲にして、沢山の富を獲得してきた。本来ならいつかの時点で、何らかの方法で、環境に与えた傷は修繕されなければならない。でなければ我々は富と引き換えに将来を失うことになりそうである。その意味で資源に頼り過ぎない知恵を一刻も早く育まなければならないが、歴史的に見て、この手のアプローチが人類によって実現されたことはない。当然ながら我々は、富を得るためには命すら掛けるが、命懸けで富を与えることはしない。獲得には権利を求め主張を辞めないが、富を共有することには本質的に強力な駆動を発揮させないようである。それがゆえに我々はいつまで経っても自分達でけじめを付けられない。負債は課題として将来に押し付けている。
富の獲得を許さない社会など、人類の平等原理に反するし、なにより人権を無視したテーゼとしか思われないだろう。しかし実際に、将来の人類は確実に、今、我々が享受している富の多くを手にできないであろう。何故なら我々はそれらの希少な資源を使い切ってしまうかも知れないのだから。もちろん未来社会は、今現在の我々が知らない新しい技術の恩恵を得るはずである。それらが世界に新しいかたちで富を分配するという楽観で、我々は将来を放置できるのかも知れない。
経済が生活の基盤になっている社会で生きる我々にとって、今日という日は事実上規定され、明日すらも実際には自由など無い。生活のために働かなければならない状況で、我々のほとんどが日々、他に選択肢の無いまま希少な資源を消費してしまう。これ以上使い続けていたら消失してしまうことが分かっていながら、経済原理は一秒たりとも待ってはくれない。今日も働かなければアパートの家賃だって、35年のローンだって支払うことが出来ない。世界中のアパート家賃や、世界中の住宅ローンが、今、熱帯雨林の森林を伐採し、石油を湯水のように組み上げ、地球の均衡にダメージを与え続けている。そんなこと頭では皆わかっている。
月給を諦めたとしても他の選択肢があって、別の生き方を選べる人が世の中にどれほどいるだろうか。
世界中のほとんどの両親は、我が子のためにあらゆる犠牲を払ってその子の将来が善くなるように教育し、その子の将来の可能性を広げるかも知れないあらゆるチャンスを準備しようと努力している。しかしながら恐らく、元子供だった将来の人類は、我々の知らない種類の富の獲得に翻弄されるはずである。一人の人間が一生を賭してやり遂げた成果は、ほとんどの場合、有っても無くても差し支えないし、むしろほとんどの場合で、ただただ富を浪費したという事実が残されるばかりである。人が生きるとはどういうことか、この問いに答えを得ることはとても難しい。答えが存在するのかも疑わしいし、そもそも問いが間違っているのかも知れない。ヒトは答えがあるから生きているわけではないのだろう。それが当たり前の我々にとって、たとえ明確な答えを与えられたとしても、答えに向かって真っ直ぐに生きられるのだろうか。
もしも我々が答えの無いことに自覚的であるのなら、無い方向へ向かうことの意味を今一度問い直しても良いはずである。がんじがらめの現代社会の中で、少なくとも我々は問うことに対して常に最大の自由を行使すべきである。

