先を越された

 暮れも差し迫った12月28日。今日は2025年最後の日曜日。僕の日曜日の仕事は愛車を動かすことである。

 貧乏性の僕は、最低週一度の愛車のエンジン始動に併せ、そこに実益を持たせるためにスーパーマーケットへの買い出しを愛車の任務としている。しかも車で買い出しをするのだからと、なるべく嵩張る物とか重い物をわざわざ買うよう心掛けるのは、僕の貧乏性が筋金入りだからである。

 車で買い出しに出掛ければほとんど必ず、2リットルのペットボトルのミネラルウォーターを12本買うのだが、自分のミネラルウォーター消費量はどうやら一週間に12本未満なのは明らかで、アパートの廊下には6本一組にパッケージされたミネラルウォーターのペットボトルが徐々に増加し、廊下の幅を着々と狭めている。それでも僕の貧乏性は余程強固らしく、僕は頑なに毎週12本のペットボトルを追加する。

 先週はほとんど一週間を通して小雨が続いたので、Torinoの街の地面は湿っている。空気もだいぶ湿度が高い。前日の土曜日は久々に街へスナップ撮影に出掛けて、フィルム一本の撮影を終えて家に戻った時間は既に14時半を過ぎていた。遅い昼食を摂り、コーヒーを淹れて、金曜日にした洗濯で、物干しラックに掛けられたままの洗濯物を畳んで、住まいの掃除を始めた頃には17時をまわっていた。掃除を終えたのは結局21時で、それから夕食の準備をし、シャワーを浴び、シャワー室を掃除し、柔軟体操をして、食卓に着いたのは22時半だった。

 一日のうちで最も困難なタスクは夕食後の食器洗いであるが、昨夜は殊の外、重い腰が上がり難かった。最終的にベッドに潜り込んだのは日付を跨いだ1時だった。

 目覚ましの鳴らない日曜の朝に、何故か7時に目覚めてしまった僕は、加齢の影響でトイレが近いこともあり、トイレついでにそのまま起き出してコーヒーを淹れた。自分の作業場がアパートから徒歩5分の距離にあるので、もう滅多なことでは愛車を使うことも無くなってしまったのだが、せめて週一度くらいはエンジンを掛けて足回りも動かしてあげねば、という訳なのだ。

 VolksWagenの1.2Lディーゼルターボは、生産された後、程無くしてラインナップから外され、生産中止になってしまったエンジンで、恐らくは構造的な問題、あるいは環境維持のために各国が定めるレギュレーションに抵触するようになったのかも知れない。この小型ターボディーゼルは現行のラインナップから姿を消して、ディーゼルエンジンは2L以上の排気量になった。

 この小型1.2Lは頗る燃費の良いエンジンであるのだが、短い距離の運行ばかりを続けているとわずか10日から2週間ほどで警告ランプが点灯してしまうという問題を隠し持っている。

 ディーゼルエンジンは排気ガスに微細なススが混ざってしまう、それはガソリンではない軽油エンジンの特徴である。ディーゼルエンジンはある程度アクセルを踏み込んで、エンジンに高い負荷を掛ける方が軽油の燃焼効率が良く、逆に低負荷の運転ではエンジンの温度が上がらず、特に排気ガスの温度が低いままだと、ディーゼルエンジン車に装備されている微粒子捕集フィルターが目詰まりしてしまう、らしい。その詰まりを解消するには、僕の愛車の場合、10km程の距離をある程度エンジンに負荷が掛かるような高回転を維持して運行しなければならない。しかしそれは、街乗りに特化したユーティリティカーや小型車の“日々のちょっとした移動“にとって実は不向きなエンジンなのである。恐らくはそんな理由で、ヨーロッパの小型車や街乗りユーティリティの車は、長いこと低燃費で人気を博したターボディーゼルエンジンから、ガソリンエンジンに置き換えられた。

 というわけで、週に一度の近所のスーパーまでの往復を、僕はなるべく2速までのギアで運行している。回転数を高くしながら走らせるのだ。つまりはディーゼルエンジンから排出されるススを、マフラーに溜まらないようにするためである。高回転だとエンジンの燃焼室でススが生成されにくいのか、それともススが勢い良く大気に排出され易いというだけのことなのか、真相は後者のような気がしないでもない。いずれにせよスーパーは近所なのでしっかりマフラーが温まるかと問われれば大いに疑問ではあり、警告ランプが点灯すれば、その時は諦めてどこへでもちょっと足を延ばすしかない。一方で、屋外に駐車しっぱなしの車を全く作動させないのも良くないので、せめて週に一度くらいと、近所のスーパーへ買い出しに出るのである。

 そして車を使う際にもうひとつやらなければならないことは、一週間のうちにボディに降り積もった排気ガス微粒子ススの掃除である。

 残念ながらトリノという街はヨーロッパの中でも有数の大気汚染地域なのである。地理的には街の周囲を高い山々に囲われたうえ、海からの風も届かない地形は、都市の中で排出されるあらゆる排気ガス、自動車のそれはもちろん、集合住宅の暖房用のボイラー排気も、前者に劣らず空気を劣悪に汚染している。現代のような工業都市になる以前のピエモンテ州は元々雪国だった。自動車工業の盛んな地域として栄え始めた頃、街のあちこちに建設された集合住宅にはセントラルヒーターが完備されたが、それらの住宅は今も健在であり、同様にして古いセントラルヒーティングのシステムも依然として現役である場合が多い。一週間も車を屋外に駐車しておくと、それらの排気ガスに含まれる微粒子のススが薄っすらとボディに積もってしまうのだ。愛車のボディはかれこれ数年間、洗わずに汚れを堆積させているものの、ガラスだけは運転の安全性を左右するので、僕はガラス拭き用のクロスで拭き上げてからクルマ使うことにしている。こんな作業はトリノに引っ越して来る前までは必要無かったことなのだが、トリノに来て以来、日曜日に車のガラスを拭くことも習慣になった。その度に、この空気を自分も肺に摂り込んでいる、という事実に不安を覚えてしまう。

 この日も朝、出掛ける準備を整えた後に、湿らせた窓拭きのクロスを手に外へ出た。昨夜は雲が無く晴れていたので、放射冷却で外気温は氷点下になっていた。アパートの玄関口は西向きのため、午前中は7階建ての建物全体の陰に隠れてしまう。玄関を開けると朝の9時にも拘らず、影になった道路は薄暗く、しかも凍みるように寒かった。

 そこにゆっくりと、大型の車両が僕の目の前を塞ぐように、一方通行のcontrovialeを南側から上がってきた。トリノ市にはcontrovialeと呼ばれる側道が大通りの両脇にある。大通りの自動車の流れと、住宅街への車での侵入は、この側道によって区分けされる。多くの場合、大通りと側道は街路樹で区切られ、街路樹の内側にはパブリックの駐車スペースと一方通行の道路が設置されている。目の前を通過しようとしているのはAmiatのプラスチックゴミ回収車だ。

 Amiatはトリノ市が委託している清掃業者で、街全体のゴミ回収と道路や公園の掃除を毎日行っている。僕はストリートスナップの被写体として、このAmiatの清掃員たちも撮影している。大きな回収車がアパート玄関前に現れたこの時は、あいにく愛車のガラス拭きのためだけに外に出たので、もちろん、カメラは携えていなかった。

 “ああ..被写体が通り過ぎていく…”と心に思いながら、ゆっくり進んでいく車両を眺めていると、その後ろから一人、Amiatの作業員が回収車の後を追うように玄関の前を通り過ぎようとした。僕が彼女の存在に気付くよりも先に、先方から“Buongiorno”とにこやかに挨拶された。もちろんこちらも直ぐに笑顔で”Buongiorno!”と応えたが、一瞬、「先を越された」と思った。

 街ですれ違う人の全てに挨拶など、さすがに出来るものではない。しかしながら、道路で働く人々、アスファルトの整備や歩道の清掃であったり、あるいはアパートの管理人らしき人が玄関先の掃き掃除している場に遭遇すると、僕は挨拶をする。

 それぞれの人は報酬を得てその役目に就いているので、礼を云う必要性は無いと言えばそれまでだが、まあ理屈はともかく僕は挨拶したいのである。わざわざ労いの言葉を掛けるのは、なんだか上から目線のようにも思えるし、“ご苦労様”と言うよりは、ただ“Buongiorno”と挨拶をする方が僕にはしっくりくる。

 だからもちろん、清掃員のAmiatの人達にも僕はいつも挨拶をする。しかしこのときは先を越されて先方から挨拶されてしまった。当然のこととして、僕自身はアジア系の移民であるのだが、外国人として好意的な対応を受けることは殆ど皆無である。特段、差別的な扱いを受けるわけでもないのだが、同様にして、好意的な扱いも受けない。イタリア人が保守的であるとか、排外主義的であるとか、そんな事とはきっと全く関係がない。昨今は日本国内においても外国人の存在は無視できないほどに増加しているそうだが、あなたは初対面の外国人に対して、しかもアジア系の移民に対して特別好意的に接することはないだろうと想像する。どうだろう。

 しかしながら、その朝に限っては、50歳を過ぎたアジア人が気持ちの良い挨拶を受けた。些細なことではあるのだが、こんな僕に対して、という申し訳無さと同時に、軽快な足取りで目の前を通り過ぎ、溌溂と作業を続けていた彼女の後姿に、言葉で表現するのはちょっと難しい、ある種の喜びを分けてもらえた。

 その朝はプラスチックゴミの回収で、それこそユニットバスくらいの大きさのポリバケツに、バーベルに付けるおもりのようなキャスターが4隅に取り付けられた巨大な回収容器から、中身のゴミだけを回収車に流し込む作業を彼らが執り行う。それぞれの集合住宅の玄関に面する道路わきに置かれたこれらの巨大ポリバケツを、道路の中央に引っ張り出して回収車の後端にドッキングさせる。ポリバケツの方もAmiat指定のもので、バケツの背中の部分が回収車の後端にドッキングするような専用フックが付いている。上手くドッキングさせた後は回収車に装備されたボタン操作で巨大ポリバケツが持ち上げられて、天地をひっくり返して中身のゴミだけが回収車に吞み込まれる仕組みだが、一日にこの巨大ポリバケツを何台ひっくり返すのかは分からない。地域ごとに回収車は振り分けられているが、一台の回収車で200回くらいはポリバケツをひっくり返すのではないだろうか。

 回収業者は効率よく短時間でゴミを回収できるように専用の回収車を開発製造する。巨大ポリバケツも、もちろんその回収車専用に設計製造されている。一日に200個の巨大ポリバケツのゴミを飲み込む回収車が、この街に一体何台稼働しているのだろうか。20台?いや30台かも知れない。

 都市に人や仕事が集中することで、暮らしは高効率になる。都市での仕事とはもちろん、一次産業などではない。二次産業ですら都市の近郊に散らばっていて、都市の中にはほとんど存在しない。つまり都市は三次産業の集合地帯である。これほどまでに三次産業に溢れ返っている我々の生活は、生きることの本質を実感するのが本当に難しい。我々が日々悩み、問題解決に追われ、健康を損なってまで貫徹しなければならないタスクは、いわゆるサービスである。本来的には無くても良いものなのだ。

 もしも、これらのゴミ回収車が、車両の不具合で30台の稼働が滞ったとしよう。街は瞬く間にゴミで溢れ返る。しかし本質的に、何故、そんなにも多くのゴミが家庭から毎日排出されるのだろう。それは、誰かが毎日、ゴミの元を家庭内に持ち込んでいるからに他ならない。その多くは梱包物や包装、あるいはまったく必要のない広告などだ。しかもそれらはわざわざ資源とエネルギーと誰かの労力を元に製造されている。それらのわざわざ拵えたものを、わざわざ専用の回収車に集荷させる。これらのことが全て都市から消え失せるだけでも、街の暮らしはもう少し穏やかになるのではないだろうか。回収車の存在が邪魔だと言っているのではない。ただ、人と人とがより本質的な意味で支え合えることはもっと他の部分にあるのではないか、という問いである。少なくとも僕は、あらゆる仕事に携わる人の顔を見たいと思うが、商品のパッケージのプラスチックは機械が製造し、ゴミにされた後は人知れず回収車と作業員によって回収される。ありがとうの言葉すら誰に掛ければよいのか分からない。せめて路上で出会ったならばBuongiornoと言いたいのである。

 人対人はもちろん、企業対企業、延いては国家対国家においても、現代は競争である。不特定多数のライバルの中から、自分が多く稼ぐには、便利なツールを真っ先に導入し、誰よりも早く使いこなす。誰にも先を越されないうちに。二倍のスピードで、十倍の効率で物事を処理して、他と差を着けなければならない。食事も子作りもそういうスピードで済ませればよい。実際に、それらはもう生活から省かれつつあるのかも知れない。

 昨今、いわゆる勉強のできる人が、システムを上手く操作し、開発を推進し、経済的な獲得の追求に成功している。経済効果の大きい方が正義であるというのは、誰も疑わず常態化している。AIを適宜活用して生活を効率化し、他者との差をつけることでさらに獲得効率を上げる。皆、夢中である。その裏側で、第一次産業は、AIでどのように効率を上げているのだろう。我々は毎日、エネルギーを摂取しなければならないが、全てをサプリメントで補う、宇宙船内の生活を我々は目指しているのか?何のために?

 AIを開発したり、それを巧みに利用してあらゆる事柄を効率化しようとする人たちの多くは、畑でトラクターを操ったり、鍬を携えて土と対話することは、別世界の出来事のように捉えている。ホワイトカラーの人たちのほとんどが実は身体の使いこなしが下手である。鍬を身体で使うのは意外とスキルフルな作業である。実際のところ、自分の身体そのものは効率よく、簡単に操作できるものではない。それが出来ない人たちが、画面と相対して、じっと、ひたすら指だけを動かして、何やら企んでいる。だがもしも、日々の食事が供給されない事態になれば、そんな悠長なことを継続してはいられない。

 ゴミ回収一つとっても、仮にたったの一日でも業務がストップしたら、大都市はパニックになるだろう。翻って、我々個人個人は、風邪を引いたらベッドで休養を取らねばならない。しかし都市は、休養を取ってはならないシステムとして稼働している。AIが急速に隆盛している昨今、AIの演算に必要な半導体製造に拍車が掛かっているのはもちろんのこと、演算処理そのものに必要なスーパーコンピュータの電力消費を賄うために、AI企業が自社専用発電所の設置計画を進めている。街から自動車を少しでも減らすために、公共団体は公共交通機関の利用を促しているが、AI活用において個人使用に歯止めを掛けることはきっと難しい。将来的に、エネルギー消費は膨大に膨れ上がることだろう。AIを日々使うことが、極北地域の氷河を少しずつ溶かしてしまう事実など、誰も気に掛けたりはしない。このままではきっと都市の鬱化が始まる。そして地球そのものも鬱に掛かってしまうだろう。

 来週の日曜日は、車のガラスを拭く前に、カメラを準備して外の音に耳を澄ませていようと思う。回収車が来たらカメラをすぐに持ち出せるよう待機するのだ。彼らの仕事は一時たりとも留まってはならない。作業員たちの存在は何よりも有り難く、都市の根本を支えている。僕はきっと、挨拶よりも前にシャッターを先に切ってしまうだろう。