誰のために
人間はまず、言葉を多様に扱うことに長けている。単に言葉だけではなく、“多様に”を添えたのは、昨今、鳥がどうやら言葉を操っているということがわかってきたからである。しかしながら我々が扱うレベルの言語には至っていないと思われる。
さらに人間において特徴的なことのひとつに、大きな社会を形成する、という性癖がある。しかもその形態は様々で多種多様であり、ある意味で人々は無限の想像力をもって物事を構築する。
人の声が単なる呻きや叫びから言葉に変化していった、その変態を促した動機は、自分の想いを誰かに伝えたかったのが始まりだろうか。もしくは対峙する誰かの想いを理解したいという想いが先行したのだろうか。これはほとんど鶏か卵か、という問答と同じである。実際には判明しないだろう。生まれたての赤ん坊を見て、泣き喚くのは即ち他者への理解の請求だろうが、その瞬間に対峙しているのは多くの場合、母親であって、その母親は赤ん坊の想いをどうにか理解したいはずである。しかしこのコミュニケーションに本当の意味で言葉が要求されるのかは疑問で、何故なら赤ん坊の要求は種類が少なく、喋らずとも大概、判別は付くからである。あるいはより時間を遡ってアダムとイヴの馴れ初めまで行きつけば、口説き口説かれが言葉の始まりだったのだろうか。僕が問うているのは伝えたいか理解したいか、のどちらであろうか、ということなのだ。
我々は食事を摂らなければ早晩飢え死にしてしまう。食物を摂取する、というのは他者の命を摂取することに他ならない。野菜や穀物のような植物由来のものでも、栽培の過程でそれらを発芽させ育て、摂取する段階で必要なものを伐採する。つまり命を搾取する。人間の代謝には欠かせない蛋白源となるものの代表に動物の肉がある。魚でも鶏でも豚でも牛でも、その命を獲って我々自身の生命へと引き継がせる。しかしながら我々は殺しをしたいがために食べるのではない。殺しを人生の糧にしているのではなく、食物を代謝の糧にしているのだ。もしも仮に殺しという快楽を永遠に続けたいがために殺してそれらを食する者がいたとして、単純に自身の代謝のために他者の命を頂くものと、それら二者の行動に違いを見出せるであろうか。外側から見える行動が同じであれば、その動機がたとえ社会の慣習に反するものであっても、きっと誰も咎めることは出来まい。つまり外側に見えていることと、その原動力となる動機には、じつはあるべき相関関係が本来は存在しなければならないのではないか、という問題だ。取るに足らない問答のように感じるかも知れないが、現代社会は思いのほか、人々が多様な動機に支配されながらも、似たような結果を求める傾向が強いのではないかと、感じられるのだ。逆説的に言えば、人々は多種多様であるにもかかわらず何故か共通の結果を求めている。様々な思いを抱えながら、何故か皆、同じように振舞っている、と言い換えられなくもない。
前置きが長かったが、これらの現実を踏まえて私が考察したいのは芸術作品の現在である。作品のあるべき理想の姿を提示したいわけではない。芸術家という生業は過去を振り返ってみてもそれなりの歴史を築いてきた。積み重ねられた芸術の歴史を踏まえて、現代において、芸術家として制作を続け、ひたむきにそれと向かい合い、自身の探究を深め、活動を継続するためには、それなりに縛られる要素も無くはない。重要なことはモチベーションの泉が枯渇しないか、ということ。そして社会生活がそれなりに送れるか、ということ。制作に必要な資材を必要なだけ入手できるか、ということ。これらの要素は空気のように地上に万遍なく行き渡っているものではない。全ての要素は見方次第では極めて限られているし、誰もが容易く入手できるものでもない。誰かが入手すれば、他の多くの者には届けられない、という場合がほとんどだ。モチベーションを得るには少なからず知能の明晰さが要求されて、それは個人の体力や若さにも関係し、遅かれ早かれ少しづつ失うものである。社会生活を送るには何よりもまず金銭的な基盤は不可欠である。社会生活への参加を止めることはできず、参加費用は決して滞ってはならない。そして、創作に必要な時間と体力と資材を、実際に永続的に入手できるのか。実際のところ、この三つの要素を潤沢に、しかも永続的に得ることは条件的にも非常に難しい。時間は個人にとって永遠ではないし、体力は限定的である。経済力を得るのは別の意味で優れた才能を必要とする。
これほどまでに在り方が多様で、条件も複雑になると、本当の意味でひとつの作品を誕生させるというのは生易しいものではない。世界中に美術館が建設され、世界中の都市に画廊が店を構え、特に資本が多く行き交うあちこちの大都市ではアートフェアが目まぐるしく開催される。作品を受け入れる受け皿は地上のあちらこちらに散らばっているが、そこに収まりたい作品の総数は受け皿の数百倍でも不十分だろう。世界人口が増えたからゆえの作品数の増加なのか、受け皿が増えたが故の増加なのか。知る由もない。しかしながら僕はもうちょっと原初的な部分で、この世界規模の椅子取りゲームを眺めてしまう。それは何故と言うに、作品づくりの決め手になるのは受け皿の有無ではないはずだからである。初めて言葉を持った人間が、相手に伝えるか、あるいは相手を受け止めるか、というのを区別することなく、全体としてそのものを受容したのと同じように、恐らく我々の創作は人間の中に総体として芽生えた。作品は受け皿を求めるものでは決してなく、何かのトレードを成立しなければならないものでもない。それは生む情熱と、生まれようとする野心を即時的に融合できる能力そのものである。つまりそれはアイデアと技術という生みの親と、具体的な素材を纏う誕生の種であり、それを全体とするそのものである。それ以上でもそれ以下でもないはずだ。
野心というのは分不相応の野望という意味ではない。他者に迎合しない、本来の生命が持つ生きることへの望みを意味している。生む情熱と生まれようとする野心が作品を作品たらしめる。芸術の歴史に名を刻む名作は、多かれ少なかれ、そのジャッジを受けている。現代に溢れる作品のホストの存在は、更なる作品を呼びよせ、それとともに資本の流れを誘発するが、作品がひとたびどこかに収まった後、それが5年、10年、100年、千年と、時空を順調に旅できるかどうかは、ほとんどの場合、その作品の生まれに依存するだろうと思う。十分な情熱と野心は、生まれようとする事実に対して得られたものか、あるいは現世的な利益のために得られたものか。それはきっと時間が教えてくれるのだろう。
多種多様な人間が共通の結果を求めている、と先述したが、それはきっと自身が本来持つ物に対してきわめて無関心になっていることと、誰かが持つ物に対して異様なまでに関心が膨張しているからかも知れない。その原因は分からない。しかし僕らは誰かのように生きるためには生まれていない。僕は他の誰かではない。それはあなたも同じだろう。あなたはあなたが持つ自分を育み成熟させるという使命のために他の命を奪うことが出来る。それは循環であって、抹消の類であってはいけない。あなたが自分を殺すなら、あなたはいずれ暗がりに落ちて凍えてしまう。なんにせよ、我々はどんなに道を逸れても殺すために生きることはないし、生きてはいられない。
見えている世界の多様さは、自分の存在を矮小なものと信じさせるために広がっているのではない。世界を構成するのはディテールであり、世界を支えているのは全てのディテールの確信である。

