誰も到達できない場所
ものごとがわかる、というのは人生において少なくない場面で我々の生活を助ける。しかしこの“わかる”ということそれ自体、実際には色々な種類の“わかり方”があるといのは、大なり小なり皆気付くところである。
例えばわかるを“理解する”に言い換えると、わかりたい対象が一体“何のために”生まれたのか、あるいは“何のために”行われるのか、という問いに発展する。その問いはある行動に対する動機の理由、存在そのものが誕生した理由まで、“何のために”という問題提起は世の中の様々な事象に結びつけることが出来る。
“何のために”は須らく、対象となる存在、あるいは現象がそもそも発生した原因とその理由を、ある程度の明確さをもって理解したい、という要求である。しかしながら少なくない人が薄々感じているように、世の中には説明することが難しい現実も存在している。説明がつかない、ということそのものが、人間の頭脳の限界に因るのか、あるいはある種の現実そのものが人間からの原因追及を拒んでいるのか。それを僕が言い当てるのは難しい。頭脳の限界か、あるいは現実そのものの無頼性か、そして実際にはこの二つはただの方便で、同じことではないのか。なんとも解からない。
理由もなく説明もつかないある種の現実が世の中にありそうな気はするし、それが世間の一部としていつもどこかに潜んでいる、というファンタジーじみた見解は、それなりに賛同者を得そうでもある。曰く、それは世界が、あるいは宇宙が、人間の気持ちに寄り添うために存在しているわけではない、というある種の擬人観とは正反対の信仰みたいなものだ。個人個人の人間が世界に寄り添おうとするのは勝手だが、世界は、宇宙は、そんなちっぽけな事に構っている暇はない、などと言われれば。そりゃあそうだと納得させられてしまいそうである。その信仰はとりあえず横に置いておいて、宇宙は人間どもを冷たく放ったらかしている、とまでは言わないものの、特に気遣っているとも思えない。宇宙は、あるいは世界は、その大きさ如何を問わず、決して我々を軽んじているわけではないし、一人ひとりの個人に対して、無礼に接しているわけでもない。ただし、宇宙には貫徹しなければならないことがきっとあって、それがひいては世界を最もちょうど良い姿のままに存続させているから、一心不乱にそのことだけに集中している、のだろうと思う。宇宙が何をしているのかは、人間にはいまいちよくわからない。何の目的で爆発したり膨張したり収縮したりぐるぐる回ったりしているのか、きっとそれを続けるのが今のところ収まりが良いからであろう。ちょうど僕らがアリンコの行列を眺めながら屁にも思わないように、人間の存在をアリンコのように眺めつつ屁にも思わない上位の存在が居たとしても、何ら不思議ではないが、そんなことよりも、我々がどんなふうに見られているのかではなく、我々自身がその程度の存在であることを自覚する方が、もしかしたら大切かも知れない。
わかりたい、というのは動物の本能の現れ、端的に言って生存戦略の一種なのだろうが、人間が持つ、わかりたい欲求は、いささか粘着質が強く、ときに傲慢さもそこに絡みついてしまう。勝手な判断で物事を決めつけてしまうような、安易なわかり方をしてしまうこともある。むしろ本当の意味で真実がわかる、というのは実際には極めて難しいことで、わかればわかるほどにわかっていないことを再認識させられるのが、世の常であり、それに挑んだ人が痛感する事実であろう。単純な意味で、我々が目的を持って作ったもの以外の事象を、自分で作った物と同等のレベルで理解することは不可能とさえ言える。
個人個人は皆、大なり小なり勝手な判断をして、世間を理解したつもりになり、己を正しそうに装い、直接的であれ間接的であれ誰かを侮辱する。端的に言って、世間は我々がそこに参加する以前から既に存在していたのであり、あなたが一人で組み上げたものではない。あなたの眼で見ている部分以外に、数え切れない細かな要素の集合でそれは成り立っている。その中で我々は、自分の足場を明確にするという必要に迫られて、ある程度は周囲をわかったつもりでいなければならないのだが、世間の重厚さは一人の人間の理解力に収まりきるものではなく、我々は意図せずとも誰かを誤解し、知らずうちに自分を正当化している。
わかることの難しさのひとつに、その奥行きの深さがある。例えるなら、発せられた言葉を、言葉通りに理解することと、その言葉が発せられるに至った背景を知る、ということのあいだには、時として全く別の内容が重なっていることを我々は知っている。この二つのレイヤーが、実際の世界ではさらに複雑に折り重なっているだろうことを、我々は知っちゃいながら、そこに敬意を払うことがなかなかできないものだ。何はともあれ、わかるということの深さについて、僕らはそれを渋々でも了承しなければならず、しかも了承した瞬間に、不幸にも“わかる”の限界を承認することにもなる。生存戦略として自分を取り巻く環境をより深く理解しようとするのは自然なことだから、つい、むやみやたらにアンテナを伸ばし過ぎてしまうかも知れないが、大切なのは見えていること、あるいは聞こえていることは、いつでも世間のごく一部に過ぎないということをわきまえることだ。
理解することを諦めなければならないわけではないし、わかるということから逃げてもいけない。最初に書いた通り、わかることは我々の生活を助ける。わかるというのは、例えば、自転車に乗れるようになることでもあるし、バタフライでしっかり息継ぎが出来るようになれば、それはバタフライという泳法を身体が覚えた、つまり泳ぎ方が分かったということだ。人体の解剖献体を見て、胃と十二指腸の境目を指摘できて、小腸と大腸の区別がつけば、それはカテゴライズできたと言え、つまりはそれらの構造を認識したと言えるわけだ。わかるというのはある場面では身体的熟練であり、別の場面ではカテゴライズそのものである。物事をカテゴライズするとき、じつは多くの場合、その振り分けはその時点で見えているものが対象となる。つまりその時点ではまだ認識できていない部分の存在については無いものとして考えている、というジレンマが常に隠れている。だから我々は実のところ、常にわかったつもりでいる、というのが現実である。カテゴライズの精度は見ている眼の解像力と、区別する頭脳の認識力に依存している。
カテゴライズする場合には、何はともあれ常に余白と遊びをそこに内包させておかないと、あとで何かしらの間違いを誘発することになる。ほとんどの場合は時間の経過とともに観察眼の解像度は上がるし、頭脳の認識力も向上する。それは一人の個人としても、社会全体としても当てはまることで、カテゴライズは大方、時間と共により細分化されるものだ。“わかった”と確信する際は、同時に将来に対してリスクを背負うことにもなる。今はまだ見えていないものがいつかは頭角を現す。その時にいかに素直にその存在を認められるか。いかに滑らかに認識を刷新できるかが最も求められることだ。つまり間違いの訂正である。
いっぽうで、カテゴライズの理解ではなく、泳ぎ方を身に付けるような習得の場合でも、実際はやっぱりわかり方に幅がある。バタフライの泳法であれば、たとえあの難しい息継ぎが出来たとしても、息継ぎの後に失速してしまう泳ぎもあれば、息継ぎの動作は出来ているのだが、それと引き換えに体力を過剰に消耗してしまい、結局永く泳ぎ続けられない場合だってあるかも知れない。 “わかる”には常にある程度の幅がある。泳ぎ方だけにとどまらず、それはあらゆる物事に対する能力差に実際に現れているのではないかと思う。
眼の前に一本の立派なプラタナスの木があるとしよう。机の上には一枚の白い紙と、よく尖った2Bの鉛筆がある。風も無く穏やかで、太陽の光はそのプラタナスの輪郭をしっかりと際立たせている。あなたはその木を手元の紙にスケッチし始めるのだが、実は子供の頃から絵心にはやや乏しい。あなたが絵を描き始めた途端にプラタナスの木が見られていることを恥ずかしく思って、くねくねと形を変えるわけでもなく、太陽があちこちいたずらに場所を移動して、プラタナスの輪郭を見えにくくするわけでもない。しかしあなたの描くプラタナスは、目の前に佇む実際のそれとは、何故だか余程ディテールが異なっている。
紙に描かれたプラタナスの姿を実物の木と比較してみると、全くもって重なり合うには程遠い輪郭を描いている。あなたが見ているプラタナスの木は常にそのカタチのまま、そこに佇んでいる。あなたの眼も同様にその現実世界をしっかりと捕らえている。ただし、脳を経由してそのプラタナスの姿と手の動きを連動するように指示し、その輪郭をなぞらえるように促して、鉛筆の先端にその姿をトレースしようとすると、そのミッションの過程で意味不明なエラーが生じるのだ。いくら似せようとしても瓜二つにはならない。プラタナスは自分の見る限り、その姿を固定している。だからあなたはただ、その固定された姿をトレースすればよいだけだ。しかし、眼で見たものを指先にトレースする段階で、あなたの脳は自分勝手に有らぬ姿をでっちあげる。そもそもミッションは至極簡単な事ではないか。あなたの勝手な思い込みを排除して、あなたの眼が見ているように、紙の上にその姿をトレースすれば良いだけのこと。しかし、我々にはそれが実際に出来ないのだ。眼球を経由して脳に入力された情報を指先で出力すると、全く別のものが現れる。
そもそも我々のわかるということの実情はその程度のクオリティでしかない。だから世界をわかったつもりでいると早晩、しっぺ返しが来るのだ。実際の世界はそんな姿をしてはいないよ、と誰かが指摘してくれるわけではない。あなた自身がTrial & errorを繰り返すことで自分の認識の歪みを自ら自覚し、修正しなければならない。
カテゴライズして認識すること。泳ぎ方を体得すること。それら以外にも我々は、数値化したり言語化して“わかる”に至る方法を愛用している。
対象が計れるものの場合、それを数値化することで、我々にとってそれはより具体的な対象となる。長さとして計れるもの、重さ、大きさ、あるいは広さ、明るさや暗さも数値化できるだろう。そういう対象は数値化することでより認識を深めることが出来る。
いっぽう、考え事をしているとき、その内容にも寄るのだが、それが実際に言葉にできる場合もある。口に出すのでも良いし、書面に書き表すのでも良い。考え事は多くの場合、言語と相性が良く、逆に言えば言語化できることは考え事の対象にもなりやすいのである。考え事にももちろんいろいろな内容があるのは事実で、現実問題、人間の思索がどの程度、言語と関わりがあるのか、客観的な判断はなかなか難しい。自分の脳ミソの働きを客観視することは意外と難易度が高く、たとえfMRIを使ったとて、どこまで行っても完全に正確な観測は不可能である。一つ言えるだろうことは、考え事の全てが言語に頼っているわけでは決してないし、考え得る全てのことを言語化できるわけでもない。犬や猫だって立派に考え事をしているが、わんわんにゃあにゃあと考えているわけではなかろう。端的に言って、人間の脳であれ動物のそれであれ、基本的には神経細胞の発火であり、つまりはONとOFFの複合的な集合体である。脳そのものが言語を喋るわけではない。
われわれは非常に表現力の豊かな言語を手にしている。昨今では野鳥も言語能力があるとされているが、我々が操っているほどの高度で複雑な言語には至っていないだろうと僕は秘かに見くびっている部分がある。人間と野鳥以外で言語を扱う存在がもうひとつある、コンピュータである。コンピュータは0と1というたった二つの記号だけで、ある種の言語を獲得している。生物の脳が神経細胞のONとOFFという二進法で情報を処理しているのと極めてよく似ている。コンピュータ言語は人間が設計したものであるが、それが言語であることにおそらく変わりはない。我々人間が我々の言語を通して誰かと対話するように、コンピュータは別のコンピュータと彼らの言語を通して対話している、それがたとえ自発的ではなかったとしても。
コンピュータは言語を使ったコミュニケーションに留まらず、様々な演算もこなす。課題を与えれば驚異的な演算能力を駆使して、圧倒的な量とクオリティとを兼ね備えた出力を生み出せる。その内実はたった二つの記号、すなわち0と1であり、どんなに精緻で複雑な出力であってもこの二つの記号に分解することが出来て、それを様々に組み合わせることによって、ある種の世界を構築できる。出力を表現するにはそれなりのデバイスを必要とするが、コンピュータが構築する世界はただ、実態を持たないデジタル情報のみがそのエレメントであるということで、実態を持つ三次元の世界には直接的には構築されない、という制限がある。
コンピュータの言語とそれが織り成す世界は、物理的な空間を占める実態を生み出さない。あくまでも我々はその世界に空想力とイマジネーションをもって飛び込むことしかできない。仮想空間である。そこには身体ごと没入することは出来ないという制限が残る。
現代人はコンピュータの力に少なからず脅威を抱いているものの、我々の言語だってイマジネーションの世界を構築できる。というよりは空想世界の構築であれば我々の言語の方が圧倒的に歴史がある。文学であってもわれわれはそこに構築される世界に没入できる。歴史の世界でも、ファンタジーの世界でも、形而上学的な思索の世界であっても、我々は身体を実世界に残しながら、空想の中に埋没できる。あなたに考える力と、それを自由に広げる独創性があれば、夢のような空想世界に自身を導けるだろうし、そのクオリティと魅力が大きなものであれば、あなた以外の人々を夢の世界に誘うことすらも出来るだろう。しかし忘れてならないのは、我々の身体そのものは現実世界に取り残されなければならない、ということだ。空想世界の中だけで生き続けられるとしたらどんなに素晴らしいだろう。どんなに魅惑的で幻想的な時間を過ごせることだろう。その意味で身体という現実はいかに我々を限定するか、世界そのものを固定するか、ということを思い知らされるのである。
我々は空想の中に生きることも出来なくはないが、それはまずもって現実世界を全うに受け入れてこそである。世界の重厚さとは、すなわち自分の身体の扱い辛さそのものである。世界を知るということはつまりは自分の身体を知るということに密接に通じていて、自分の身体がわかることが、結果的に世界の理解につながることもある。
バタフライをより滑らかにスムーズに、より無駄のない泳ぎ方として体得できたならば、それは自分のイメージと自分の身体そのものを高い精度でリンクさせた証拠であり、あなたは自分の身体の操作を以前の自分自身よりも巧みにこなしているのであって、それは大なり小なりあなたの生活を助けるに違いない。より疲れの少ない身のこなしが出来るだろうし、怪我や体調不良からも少しは遠退くかも知れない。目の前のプラタナスの木を上手に描くことは、世界のディテールを見る眼がより精緻になっているはずで、自分の思い描く現実世界とその実相の乖離が縮まっている証拠である。指をつかって紙の上に世界のディテールを正確になぞることが出来るというのは、即ち自分の身体と現実世界とが、その関係においてより親密さを増したと言える。世界を認識するというのは自分自身の身体を抜きには成し得ない、ということが見えてくる。
人類はその長い歴史の中で常に世界への理解に驚愕すべき強い関心を寄せてきた。先人たちは世界のディテールを観察する中で、物体が細かな要素から成り立っていることを突き止め、その最小単位を原子と名付けた。原子、即ちアトムとは分解不能という意味らしい。しかし実際には原子そのものが実は原子核と電子で構成されていることを発見し、さらに原子核は陽子と中性子で構成されていることを突き止めた。さすがにこれ以上は分解できまい、と思っていた矢先に、陽子がじつはクォークといういくつかの粒子で構成されていることをも見出した。
世界を構成しているのは物質だけにとどまらず、重力や光もその構成要素であるとして、物質と同様に分解できる可能性に気付き、重力以外の、別の種類の力の伝達は相互作用とよばれ、そこからも様々な素粒子の存在を認めつつある。つまりは物質にまつわるクォーク以外にも、別のかたちで粒子が存在していることを突き止めたわけだ。この、カテゴライズに関連する世界の理解は留まるところを知らないが、これらの詳細な理解が、実質的な意味において、例えば年金問題に歯止めを掛けるわけではなく、少子化を食い止めるわけでもない。子供が生まれるのは基本的に愛し合う男女の信頼と希望と、もしかしたら生きていることそのものの喜びによってである。素粒子の存在は世界の成り立ちには欠かせないようだが、その存在感は男女の交わりを後押しするほど、おせっかいではない。僕らの生まれ持った本能がすでに、恋に落ち、子を育て、年老いて後に譲る道を整えてくれている。浮世のややこしさは、微細で複雑な世界の所為ではないのであって、僕らの歩みが下手なことに依然言い逃れは出来ない。
頭で理解するということを最優先課題として過剰に求めるべきでないのかも知れない。理論的な理解はもちろん我々の生活をいろいろな意味で援助するし、場合によっては生活水準を引き上げる可能性をも秘めている。僕が意味するところは、わかること以外に、僕らには一足先にやっておかねばならないことがある、ということだ。我々は理解の前に、覚悟と信頼をもって、自分自身の身体、ひいては世界を、ある意味でそのままに受け入れることから始めなければならない。それは我々の生命活動の大前提であり、後回しにできない原則だからである。つまりいくら身体を詳細に解明し尽くしたくとも、世界の仕組みを丹念に理論化したくとも、まずは世界を信頼し、どんな自分であれ覚悟して受け入れることである。我々一人ひとりが与えられる個別の条件が、信じられないほどの格差の上に成立している理由を僕は解明できない。それがわかってもわからなくても僕は別の誰かのポストと交換されることはない。だからまず、僕も、地上に暮らした全ての先人達と同じように、まず一歩を踏み出さなければならない。卵子が受精卵になった瞬間から我々の人生はスタートするのだが、命が尽きるまでの数十年に渡る生命活動のほとんど全てを、身体は自発的に行い続け、基本的な意味において外部からの意図的な介入を拒む。細胞分裂の仕組みが分からなくとも、とにかく我々は食べて寝て、異性と交わって子孫を残す。受精卵の仕組みがわからなくとも我々は異性とどのように交わるかを本能的に体得している。だから我々は、たとえ理解しないうちでも事を始めてしまって良いのだし、もともと世界はそう出来ている。
作る理由を知らなくても、僕らは石を彫って構わない。鑿で石を刻むというのは人間にとって生きることそのもののひとつの現われである。その理由を解明することが、彫るという動機そのものを超越する必要はない。もちろん、彫るということに自覚的である、というのは、その行為自体を助けてくれるはずである。しかし、その動機は必ずしも理解によって支えられるわけではない。多くの場合、動機は単にお腹が空くのとほとんど同じように内から湧いて出るのであって、生きている限り避けようの無い欲求とさえ言える。それは世界をカテゴライズして理解を深めることよりも、むしろ自分の身体とよりダイレクトで親密な関係を築くことでより鋭敏に感じられるものかも知れない。その身体を通して世界とより緊密に繋がり、世界を全身で敏感に察知することに僕らはもっと貪欲であって良い。そうすれば自分が誰であるかをより深く実感できるであろう。何度も言うが、ものがわかるというのは生きて行くうえで僕らを支えてくれる。優れた指導者を得ればより効率良く技術や経験値を刷新できるだろう。教えを乞うことによる自分自身のレベルアップ以外にも、入手可能な沢山の知識によって、つまらない作業の繰り返しや日常の雑務を自分以外の何かに代用させることだってその気になれば不可能ではない。そうすることで自分に与えられた時間を拡張させることだって出来そうである。しかし結局、外側からの介入は、得られるものとほぼ同等の対価を必要とする。得られるものの代わりに、あなたは広い意味で自分自身の何かを犠牲にしているかも知れないことに、自覚的でいた方が良い。トレードで得られることはなんにせよタダではないのだ。
人生そのものは競技ではない。あなた自身は他の誰かより上にいなければならないわけではない。あなた自身が他の誰よりも、自分自身を活かしきることができるのなら、あなたが誰かの上にいかずとも、誰もあなたの上にいくことは出来なくなるだろう。今そこにいるのはあなた自身であって、他の誰かではない。あなたは誰かのポジションを奪う必要など無い。何故ならあなたが今、そこにいるその場所こそが他の誰にも到達できない場所なのだから。その場所は誰もあなたから奪えない。あなたが最も確実に自分自身を活かす方法は、あなたの人生に夢中になることである。それ以上に効率良く自分に健やかな日々を与えるものは無い、と他人事ながら僕は勝手に信じている。

