知性難民
人類の二足方向はその複雑な非線形の動きから、ロボットでは到底実現できないとされていた。今から40年ほど昔、日本企業のHondaは自動車やオートバイの開発製造の傍ら、二足歩行ロボットの研究開発にも着手した。下半身だけの二足歩行モデルEシリーズから始まり、ヒト型のPシリーズを経て、2000年にAsimoを完成させた。Asimoの前身のP3はテレビCMでも話題になり、Hondaは二足歩行ロボットの開発研究を継続する上で、カトリックの総本山であるヴァチカンに道徳的観点からその是非について伺い、承認を経て開発を継続した経緯がある。
ヒト型のロボットはその後、世界中で研究開発が進み、なかでもアメリカと中国の研究機関が近年では目覚ましい成果を上げている。今ではロボットが宙返りをする。人間だって余程身体能力が高くなくては出来ない芸当だが、それをやってのけるロボットが実際に存在するようになった。それら高度な運動をロボットで実現するには、実際の人間の動きを詳細に分析して、それを詳しく解析しながらロボットの動きに投影する。各関節の運動の速さ、全体の重心移動の詳細な分析と解析、とにかく膨大な演算を通して実現していくらしい。
その演算はディープラーニングと呼ばれ、この学習メソッドは長く研究されていたが、2000年代半ばに、生物の神経系の構造を模して開発された人工ニューラルネットワークが飛躍的に進歩し、ディープラーニングの鍵となる多階層の深層学習が可能になった。対象を全体から細部まで、マクロ的視点とミクロ的視点を関連させて学習するディープラーニングは、実際に目覚ましい成果を生むようになった。それに特化したプロセッサの開発製造も躍進し、ロボットに限らず、あらゆる分野のテクノロジーに飛躍的な発展をもたらしている。
昨今の人工知能における学習が飛躍的な進化を遂げた一つの理由に、ディープラーニングの階層ごとの演算に使われる学習データがインターネットの普及によって大量に流通し、リソースが爆発的に増大した背景がある。社会の流れと技術革新と研究者の新しいアイデアのそれぞれが満を持してシンクロナイズしたというべきだろうか。人工知能の研究は単に理論だけでは発展し得なかった。机上の論を具体的に実現できるエレメントとマテリアルに恵まれたのだ。
人工知能を使ったソフトウェアは着々と進化し続けている。開発企業も増えているし、研究機関の先行投資にも莫大な資金が動いている。現時点において、人工知能は世の中の論説を短時間で学習してまとめるのを得意としていて、人工知能そのものに知性のジャンプを命じても、適切な跳躍に調整できるのかは不明である。しかしながらこれまでは稀有の才能を持つ人のみが得られたような天才的発想や高度に熟達した経験知すらも、人工知能が獲得してしまうのは時間の問題かも知れない。
人工知能の学習メソッドも現在のディープラーニングが古典的な技術に成り下がる時代などあっという間に訪れるのだろう。AIの演算に必要な学習データは、前提として現在すでに流通していて、それらの多くは無償で入手可能な情報である。その意味するところは、兎にも角にも現在すでに一般公開されている情報だということ。情報としてネット上に挙がってさえいれば、AIがそれを学習し、まとめ、聞きさえすれば遠慮なく教えてくれる。情報収集という面においてマンパワーではもちろん到底敵わない。コンピュータのアプリケーションソフトを利用するような事務作業も、正しいプロンプトを書き込むことさえできれば、人工知能が事務作業のほとんどを肩代わりしてくれる。クリエイティブなアイデアを考え出すような発想のジャンプは、今のところ辛うじて人間が担っているが、AIの仕事として任せられる時代は本当にすぐそこに来ているのかも知れない。AIの特筆すべき能力はその膨大な演算が生み出す正確性と速さである。とにかく瞬時に適切な情報をまとめてしまう。パソコンの作業で最も効率が悪いと感じるのは、検索したものの中から適切なものを取捨選択する作業で、つまりは検索作業中で停滞してしまう待ち時間そのものである。AIは学習を瞬時に、しかも極めて高いクオリティでまとめ上げる。将棋で人間がもはやAIに全く歯が立たないのも頷ける。
人工知能という分野はこれからも様々な知的行動を人間に代わって執り行っていくだろう。翻訳のような言語理解はもちろん、様々な出来事の推論、問題解決に有効利用されるべく、開発は進んでいくはずだ。Apple創業者のSteve Jobsは自分の哲学やライフスタイルを専用のデバイスに教え続けることで、自分自身がこの世を去った後でも、そのデバイスが自分に代わって、生きている人と会話を続けることが出来るようになるだろう、と予想していた。Steve Jobsが夢見ていたのはアリストテレスと対話することだったからである。
現時点でAI技術とその活用はまだまだ揺籃期で、例えばプーチン大統領と人工知能が戦争の停戦に向けて直接の交渉に挑むということは、今のところ想定され得ない。それはまたゼレンスキー氏においても然り、イスラエル問題でも全く同様で、時間の節約を求めないような重要な交渉事において、現状では人工知能に出番はない。
人類の進化という観点から考えると、AIの台頭は間違いなく我々の日常生活をさらに便利に高効率に変革するが、同時に、当然ながら依存の危険を大いに孕んでいる。これまでにも人類は様々な形で生活様式や行動規範、社会倫理を更新してきた。そのおかげで人類は大きく繁栄したし、これからも繁栄を続けていくには違いない。ただし人類の繁栄と比例するように、一人ひとりの個人の生活が平穏で健やかなものに変革されてきたのかどうかは疑わしい。彼方を立てれば此方が立たぬ、というのはQuality of Lifeでも同様なのかも知れない。感染症や難病を克服すれば、環境やストレス要因で別の新しい病気が登場する。極論すれば全ての命には制限時間があり、それはどんなことがあろうと克服できるものではなさそうである。しかし逆説的にはもしも命に時間制限がなければ、おそらく一人ひとりの個人は生活に張りを無くし、努力をしなくなる。何故と言うに努力自体に意味を見出せなくなるのは必至だからである。野生の動物たちがとにかくも命と引き換えに日々を生活していること自体、生きることは即ち、立ち上がり掴み取ることである、と言える。
自由民主主義は個人の生存を保証するが、根本的に人は立って歩み続ける生き物には違いない。その中で、大きな失敗を経験し、ときには取り返しのつかないような痛手を被る。動物の場合、最悪なら捕食相手に命を委ねることになる。動物が捕食されるときの、成り行きに任せるあの潔さは、ある種の神々しささえ伺える。我々人間も、思い返したくもない痛手を被ることでしか、結局、うまく前に進む術を見出せない、という逆説的な現実がある。なぜなら生きている限り、失敗からは逃れられず、また、時間を戻すこともまた能わない。その痛手から自分自身を本当の意味で立ち直らせるのは我々の知性である。失敗しなければ知性は得られず、知性が新たに加わることは、皮肉にも以前より上手く前進することを可能にする。
限りある人生だからこそ我々は明日のために知性を磨かなければならない。知性こそは、死ぬと判っている命でさえ明日への動機を支えられる不屈の働きである。が、その知性すら今後はコンピュータから得るようになるのだ。栄養失調で命を落とす子供が第三世界にあるように、いわゆる先進国では今後、知性の貧困が人々の生存を脅かすのかも知れない。

