鎮魂のIIIa

 SNSでの発信が益々手軽になっていくこの御時世、YouTubeなどでのいわゆる一般人の発信がもはや当たり前になっているが、言葉が生き物である、ということを改めて感じることがしばしばある。

 僕自身が日本語の正しい使い方に精通しているわけではないので、文字で文章を読む際に、正しい読み方ではなく、誤った読みのままそれまで気付かずにいたのを、YouTubeのおかげで正しい読み方を教わり知る、というケースもあるし、逆に、世の中にいつの間にか浸透していしまっている重箱読みのような単語も、YouTubeでの肉声の談話から知ったりもする。それにしても僕はあのダイガエという音がどうにも馴染めない。ダイタイをどうしてわざわざダイガエと凸凹な読み方をするのか不可解なのだが、結局は言葉も生き物なので、変異するのである。例えば昨今、「たにんごと」という言い方は当たり前になってきた。漢字で書けば他人事だが、これは本来「ひとごと」と読んだはずである。やはりこっちの方が耳にも馴染みが良い。しかしながら「ひとごと」という言葉はもうほとんど聞かなくなった。おまけにたにんごとの対義語として「じぶんごと」なる言葉が出てきた。自分事ってなんだ?客体と主体がちんぷんかんぷんである。

 とあるYouTubeチャンネルでの発信者の談話の中で、「いさぎが良い」という言葉を聞いた。潔いという言葉が「いさぎ」と「良い」に分割されてしまった、新しい進化体系の一例である。重箱の隅をつつくような、分割した側からしてみれば実にたわいもない、嫌味な指摘だと思うのだが、「いさぎが良い」もまた、どうにも耳に馴染まない。

 馴染むと言えば、最近、素晴らしく手に馴染む道具を手にして僕はホクホクしている。それはLeitz社製のいわゆるBarnack型カメラ、IIIaである。Ernst Leitzが手掛けた、シネマ用35mmフィルムをスチール撮影用に使用できるよう設計製造された、戦前のスチールカメラである。

 僕が入手したIIIaは、Leitz製の35mmフィルム使用のカメラとしては、すでに数度のモデルチェンジを経たモデルで、1936年製とは言え、その造りの良さは驚愕に値する。なにせ御年88歳であるから、製造された当時の精度で完全に作動させるのはやや無理があるが、そうだとしても普段の撮影では不自由なくに撮影することが出来る、とても優れたカメラである。

 現時点で僕が気付いた不具合はふたつで、まず一つは1/1000秒のシャッターが安定して切れないことである。撮影後にフィルムを現像するまで、1/1000がしっかり撮影できたのかどうかは判明しない。いざ、現像したフィルムを見てみると、フレームの右側が暗く隠れてしまっていることがあるのだ。その時々によってシャッター膜のスリット幅にムラが出てしまうらしい。もう一点は、撮影された画像が、フィルムの中心よりもいつも若干、下にずれていることである。

 135フィルム、いわゆる35mm版のスチールカメラ用フィルムには、シネマ用フィルムと同様に上下にパーフォレーションという四角い穴があけられている。その穴にカメラ側のスプロケットが食い込んで、36x24mmのフォーマットであればパーフォレーションの穴8個毎に一回の撮影ができる仕組みなっている。LeitzのIII型カメラが開発されたのは1933年、その前身として1925年に世に出たI型と、1932年に登場したII型があったのだが、一方で使用されるフィルムは、シネマ用の長尺フィルムを切り分けて、スプールに巻いて使うように設計されていた。カメラ撮影自体がまだまだ一般的とは言えない、特別な行為だった時代である。Wikipediaによればスチールカメラ用のいわゆる135フィルムの工業生産は1932年のAgfaが始まりとのこと、翌年の1933年にKodakも135フィルムとして製品を世に送り出している。しかしLiecaは当時、35mmフィルムのスチールカメラ専用の市販品が登場することは考えておらず、Leitzカメラ用に専用設計した金属製のパトローネ“FILCA”に、長尺フィルムを巻き直して使用するように設計していた。ちなみに現在でも生産が続いているM型LeicaにはM3用に”XIMOO”という専用パトローネが存在した。L39スクリューマウント用のFILCAとは若干、寸法が違う。このFILCAに35mmフィルムを巻いたときのパーフォレーションの位置と、現在市販されている135フィルムのパーフォレーションの位置関係に、ずれが有るのである。そのためにIIIaをFILCAパトローネではなく、市販の135フィルムで使う場合に、撮影された画像がパーフォレーションの穴に被ってしまう現象が起こる。写真をプリントすると、フレームが下にずれている分、画像の上部に黒いスリットが入ってしまうのだが、これこそがBarnack型カメラの醍醐味だ、と逆に黒いスリットを好む人もいるらしい。

 Barnack型のカメラには測光装置が付いていない。露出計を別で用意しない限り、露出は撮影者の経験値と勘に頼るほかないが、例えばネガフィルムで撮影する場合、露出の幅は案外ルーズというか、懐が広く、白飛びや黒潰れに対してデジタルセンサーほどにはシビアでない。むしろネガフィルムの場合には安易にTTLなどの測光値を鵜呑みにすると、全体の露出のバランスを見誤ることがある。始めのうちは露出計でおおよその露出値を現場で学んで、その経験を元に、おおよその露出を予想する勘を磨くのがネガフィルム撮影をこなすうえで近道かも知れない。

 TTL測光が付いていないこと以外、90歳に近いこのIIIaは見事なまでにカメラとしての役割を担ってくれる。それどころか使い心地が実に素晴らしい。

 仰々しいグリップが無くとも手にしっとりと馴染む。シャッターの巻き上げ操作も実に心地よいトルク感と歯切れの良さがある。新しいフィルムを装填して撮影を始める際に、ダイヤルの目盛りを1に合わせることは忘れてはならない儀式だが、撮影を重ねるごとにその目盛りはひとつずつ足されていく。これらの動きは全て機械式の時計のようにギアで動いているが、手に伝わる感触が絶妙である。僕自身、半世紀も生きているうちに、いろいろな工業製品を手にしてきたという事実を、こんな些細なことから気付かされる。つまり僕の手は、安っぽい操作感や雑に組み上げられた機械の感触を経験済みで、言葉で説明されずとも感触で区別できる、掌や指で利き分けられるのである。50歳にして自分にとっての優れたモノを嗅ぎ分けた僕の手は、当然ながらこれまでに無数の製品を掴み取って操作してきた。その、たった半世紀の歴史を自覚させてくれたのは、この、御年88歳のIIIaである。

 向田邦子さんの素敵なポートレイトを撮影された彼女のフィアンセが、向田さんに持たせたBarnack III型、あの写真が撮られていなければ僕はきっと、一生、このIIIaを手にすることはなかったと思う。縁というのは本当に不可思議である。

 このIIIaは焦点距離5㎝の画角が基本として設計されているので、僕は喜んでその基準に沿った5㎝のレンズを入手した。候補に挙がっていたのはNikkor 5cm F2であったが、今のところ状態の良い個体に出会っておらず、取り急ぎLeitz Xenon 5cm F1.5を入手した。IIIaにはシャッタスピードダイヤルに1/1000まで目盛りが刻まれているが、実際の機械的な精度という観点では、この1/1000は動きにムラがある。88歳という年齢にさばを読むような動作はしない。素直で嘘をつかないところが何とも愛おしい。

 さて、この5cmF1.5で何を撮影しようかと考えると、街のスナップである。案の定、実に撮影し易い。

 街のスナップ撮影はそのもの自体が実に楽しい、魅惑的な活動である。しかしながら昨今、肖像権の問題でストリートスナップは兎角、非難されがちである。僕自身も、見ず知らずの人間から突然カメラを向けられてシャッターを切られたら、不快に感じるかも知れないし、インターネットで簡単に情報が世界に拡散できてしまう昨今では、許可なく撮影されたその写真の行く末を案じてしまうのは、きっと誰にとっても同じことだろう。しかしながら、カメラを手にして、写真を撮る、という行為に魅せられたものにとって、街を撮影するという行為に魅了されるのは実に自然な流れであり、そこに封じきれない魅力があるのは、これまでの偉大な写真家の作品を観ればことさら説明する必要はない。問題はストリートスナップ自体が、多くの市民から忌み嫌われ、非難の対象になっているということである。

 話は飛んで、日本には死刑制度がある。そのため、今でも死刑囚に死刑が執行される。執行の際、死刑囚は絞首刑に処されるが、執行の際は死刑場の床が落ちる仕組みになっているらしい。

 その、床を落とす仕掛けは別の部屋のボタンに連動していて、その連動ボタンは計3つ、3部屋に分けられて、各部屋にボタンがひとつずつ配置されているとのこと。係員は死刑執行の際、床が落ちるボタンを押すのだが、そのボタンを押す係員が3人配置され、3人が皆、それぞれのボタンを押さないと仕掛けは作動せず、しかも実際に作動したボタンがそのうちのどれなのかは、誰にも判らない仕組みになっているらしい。つまり死刑を直接執行したのは誰でもない誰か、という仕掛けなのだ。

 日本の国家は司法、立法、行政という機関に分けられ、司法で決着をつける場合には裁判官が判決を下す。しかし裁判官の判決はつまるところ国家の判決であり、裁判官本人が下すのではない。裁判官は特定の誰かでもなければ、推定される三人称でもない。非人称なのである。

 現代において、ストリートスナップの撮影には殊更、この非人称の視点がカギを握っているのではないかと、秘かに疑っている。

 向田邦子さんは大切なフィアンセとの辛い別れを経て、前向きにご自身の活動に邁進するも、不遇な事故で旅立ってしまった。志半ばであったかどうかは分からないが、このお二人へのささやかな鎮魂に僕はIIIaを手に入れた。このカメラで撮影するときは、世界のどこにも存在しない誰かに成りすまして、僕自身でシャッターを切ることがミッションである。被写体の御本人すらも知ることのない魅惑的な姿、それが垣間見れる瞬間を架空の誰かに成りすまして収めるのだ。