効率化と合理性

 片仮名で書かれたモヤモヤという文字をこのところ頻繁に目にする。僕の愛用する広辞苑第五版で調べると、もやもやはしっかり表記されているが、但し平仮名である。

 ビジネス用語の英単語がわざわざ日本語に翻訳されずに、英語の発音まま片仮名表記で使われることが多くなっているこの頃、片仮名のモヤモヤが多く使われるようになったのは、それと関係あるのだろうか。擬音語は片仮名表記でも決しておかしくはないので、もやもやがモヤモヤと表記されるのこと自体は不自然ではない。ただ、この言葉を片仮名で頻繁に見るようになったから、僕自身が気に留めたのだろうと思う。

 広辞苑第五版によれば、もやもやの意味は先ず「文明でないさま」とある。続いて二番目の意味として「気分・雰囲気などが重苦しかったりするさま。思いわずらって心がむすぼれるさま」とあった。今度は「むすぼれる」を調べてみると、一番目に「むすばれて解けにくくなる」とあり、二番目に「露などがおく」とある。三番目の意味として「気が塞いで晴ればれしない。ふさぐ」とあった。「露がおく」という表現は日常的にほとんど全く使わないが、露と置くは縁語だそうで、歌文で使われる表現なのだそうだ。置くという言葉と露とを照応させることで、露とその状況を、読む人により効果的に表現する。単純に文字としての「モヤモヤ」と見比べると、露が置くという表現は美しいし、情緒的である。片仮名のモヤモヤは情緒の機微を想像させるというよりも、もっと限定的で具体的な、忌み嫌うべき気分を伝えようとしているような感がある。

 これだけ頻繁に目にすることになった背景には、現代社会の日常生活でより多くの人がこの気分を共有しているためだろう。人々が日常的に心にこの片仮名のモヤモヤを抱えていることは想像に難くない。現代社会の日常がストレスフルであることは誰もが知るところである。

 悩み事を吐露することの必要性は昔からよく言われている。自身の中に溜め込まずに、親しい人に打ち明ける。決して悩み事の具体的な解決策やアドバイスを要求するわけではなく、単純に吐露することが精神の健全性を保持する効果がある、ということだ。相手の悩み事を聞く方は、原因を解決したり、対処する方法やアドバイスを提言してはならない。あくまでも聞き役に徹する必要があるのだそうだ。表現は適切ではないが、自分がポリバケツになった気分で相手の吐露するものを全て納めて、用が済んだら蓋をする、というくらいの心構えが要る。

 この一連の事柄が日常化してしまうと、それはそれでまた好ましくない状況がやがて訪れかねない。

 食べ残しなどの生ごみはそれ専用の容器に入れて蓋をし、然るべき場所で秘かに処理するのが理想的である。都市生活では生ごみを各家庭で処理することはできないから、専門の業者がそれを回収して処理までを一手に引き受ける。そうでなければ都市生活はすっきりと日々を送れない。悩み事を聞く相手も、日常的にその役割を引き受けていると次第にポリバケツが重たくなるだろう。どこかで誰かがポリバケツの中身を引き取ってくれればありがたい。それ自体は仕方がない。心配なのは、この人に話せばいつでもすっきり回収してくれる、と常習化してしまわないかだ。悩み事に対する自分自身の免疫は次第に鈍くなり、気付かぬうちに吐露するものが増えていく。どのみちすっきり回収してくれるルートは確保してあるのだし、邪魔なものは手際よく処分してしまったほうが日々をスムーズに送れるのだから。

 ところで現代人は昔に比べて偏食になっている。一人の人間が一日に摂取できる食事の量は限られているから、わざわざ好き好んで食べたくもない食材を摂取することなどもちろんしない。美味しい料理を堪能する機会を退けるからである。一日のうちで食事に向き合う時間は限られているし、その過ごし方次第では気分を上下させる要因にもなる。その貴重な時間と経験をより好ましいものにしたいと欲するのは当然である。決して腐敗してしまったわけではないが、昨日食べたものをまた今日も続けて食べたくはない。野菜も柔らかくて食べやすい部分以外は除くし、果物も甘い部分だけを吸い取る。玄米は身体に良いと聞くが、白米の方が食べやすいし美味しい。粗末なイモばかりで腹を満たしていたのは戦前の話で、いまでは高蛋白で低カロリーの厳選された食材をいつでも好きなだけ入手できる。健康にも美容にも魚や低脂質のお肉が好ましい。

 しかしながら偏食が行き過ぎれば必要栄養素を幅広く吸収する機会を逸し、身体の健康に不釣り合いが生じやすくなる。翻って現代の都市生活を顧みれば、悩み事を咀嚼する力も衰えている気がしないでもない。あるいはもしかしたら都市そのものが健康と美容に悪影響を及ぼす根源になっているのかも知れない。いずれにせよ、自分の中に摂取出来ずにお皿の端に除けて、見ない振りをしなければならない事柄が増えていく。かと言って、自分でポリバケツは持たない方が良い。だいたい自分には、家庭菜園も出来るお庭のみたいなゆとりは無いのでコンポストすらも設置できないのだから。ポリバケツは別に用意してそこに吐露して、適宜に処分してもらうのが健康維持のポイントだ。

 この世界を生き抜くためなのだ。それもこれも必要な戦略である。現代社会はこんなにも世知辛いではないか。そうでなくても人それぞれ何かに甘んじて、何かに目を瞑って生活を我慢しているのだ。実際問題、何に我慢しているかを考えている暇は無いし、第一、時間は無駄に過ごすものではない。

 気が塞いで晴ればれしないとき、モヤモヤはなるたけ速やかに端に除けて、後でポリバケツにポアする以外、もう上手く対処できなくなってしまった。高蛋白低カロリー以外に唯一摂取して良いのは美味しいデザートだけなのだし。

 日々の出来事の中で時折、気分を害することに遭遇するのは仕方がない。自分に罰が当たったわけではない。たまたまそういう巡り合わせになったみたいだ。それはそうなのだが、しかし晴ればれしないのは自分自身である。アレルゲンだから速やかに端に除けねばならない。自分がこれを受け付けられないと自覚したのも、何が原因だったかもうはっきりと覚えがない。何故に自分と相性が悪いのか、もう分からなくなってしまった。ただ、これから先の人生も永遠に回避し続けねばならないというのはなんとも気の遠くなる話である。理想のものを摂取できていない、不遇な状態にある、今はそんな憂いが有る程度。モヤモヤするのは免疫力の低下か、アレルギーの過剰反応か。回収先に依頼するのも憚られるようなモヤモヤだって、長い人生のうちには降りかかるかも知れない。気付かぬうちにうっかり自分自身で溜め込んでしまった未処理の廃棄物で、身体が重たく感じ出したならば、専門医に相談してお薬で分解処理することも部分的には可能なようだ。現代社会に薬は必要不可欠である。

 都市の効率に順応して生きていくには、とかく何かに依存しなければ立ち行かない。時間を無駄にしないためには時計を日頃から身に着けなければならない。依存するものを増やせば日々は効率化できるし、行動できる範囲も広げられるし、それぞれの行動を省力化できる。大変な思いをして藪の中に分け入るよりは、空港で見かけるような歩く歩道に寄り掛かった方が合理的だ。歩く歩道だけではない。身の回りにあるほとんどあらゆる物は、誰かと誰かが他のたくさんの人達と協力し合って、考えに考え抜いて作った物だ。ほとんど全て、誰かに使ってもらうために作られたのだ。

 通勤の時間帯、数え切れない人々が駅構内の乗り換えや出口へと縦横無尽に行き交う。全ての動きは悉く一直線だ。どれも限定的決定的で、時間軸にも進行方向にも選択肢は無い。効率化と合理性は知らぬうちに僕の呼吸を浅くして、僕らの日々は気付かないうちに朦朧としている。

 先週、ミラノの地下鉄はストライキで全線不通だった。待ち合わせに遅れたり、楽しみにしていたイベントに間に合わなかった人が幾人いたかは知れない。三船敏郎は黙ってサッポロビールを飲んでやり過ごしたが、ふらっと入ったBarで朝からビールでは、さすがに罰が当たりそうだ。見たかった展覧会を一つ諦めて、ミラノの地上を行き交う人に向け、60mmF1.4でシャッターを切った。