逆は然りではない
数式でA=BならばB=Aが成り立つ。養老孟司さんは「それなら明日からBという文字はいらないのか?」と皮肉を言った。つまりA=BとはAがそのままBに置き換え可能である、という意味ではあるのだが、記号としてのBは必ずしもAに置き換わるものではない。数式ではなく英単語のなかで使われるBは、Aに置き換えることはできない。
ではそもそも何故、数式においてA=Bのとき、Aという記号とBという記号に区別して表現されているのだろうか。
人間がものを考える場合に「概念」という形式がある。「概念」という概念。この時点で自己矛盾を内包していると薄らうすら感じるのであるが、A=Bは、概念でものを考える場合に都合の良い表現である。僕が今、A=Bを考えなければならなくなった理由は、ある精神科医の言葉がきっかけである。その精神科医曰く「心は脳である」らしい。
確かにその通り、心は脳機能の現象である。そこで僕は考えた。脳は心であるか。
否である。
脳は運動を制御する器官である。無数の神経細胞が束ねられて、そこで相互の信号が交わったり変換されたりしながら自発的に新しい信号を生成する臓器である。心臓が不随意的に動いているのも、我々が意識せずとも呼吸を止めないのも、脳の指令によるものである。信号を渡るのも、階段を下りるのも、熱いものに触って思わず手を引っ込めるのも、脳機能に頼らなければ実行され得ない。脳は運動である。
ここで数式が一つ増える。つまり“心=脳“ともうひとつ”脳=運動“。A=BとB=C。ならばA=Cは成り立つか。
運動にもいろいろあるし、心の作用にもいろいろある。鼓動は思考によるものではないが、脈拍は感情に左右される。“心=運動“なのか。
否であろう。
関連はあるだろうが、等価ではない。そしてまたその逆であるC=A,つまり“運動=心“という式も、成り立つ場合とそうでない場合とがある。
顔が強張るのは心に特別な感情を抱いている場合が多い。緊張と発汗も関連性はある。しかし食べたものを消化したり、走った後に脈が速くなったりするのは思考や感情の作用とは関係ない。
世の中の事物や事象を捉えようとするときに「概念」という形式はとても有用である。その概念的思考が「心は脳である」という発想を担保するのだが、これはあくまで概念的発想であって事象の本質ではない。「心は脳である」というのは思考であり、ものの見方である。見方としてはおそらく正しい見方である。臓器とその作用の一部の関係性を極めて簡素に言葉で表現したのであり、そもそもがある臓器とその作用における括弧内の話である。
当たり前のことであるが、概念とは事象や事物を捉えるための形式であって、事象そのものではないし、ありのままの事物ではない。我々人間同士がそれを思考の中で共有することを目的に発展した形式である。概念は我々の思考の産物であるが、我々が考えるよりも前に世界は存在している。つまり概念が事象に先行することはない。
だからA=BであったとしてもB=Aと限らないのは仕方がない。
A=Bという概念が事象の前にあったのならば、B=Aという前提にも沿う事象を組み上げればよい。ただし世界は概念よりも常に先に存在している。さらに言えば、我々の思考だけでは世界の全貌を網羅することはできないから、思考から生まれる概念も対象の全貌を把握することは能わない。対象を完全に網羅した瞬間に、恐らく概念は事象に立ち返り、概念そのものは消失するだろう。概念にとどまってしまう以上、辻褄はもともと合わない。それでこそ我々に見える世界の本来である。
しかしながら昨今、世の中の思考の辻褄があまりに合い過ぎている。曖昧なものは忌み嫌われるし、あることが事実ならばその逆もまた然り、と自動的に解釈されている。
この世界で逆が然る事実なんてもともと存在しない。後ろを振り返っても、さっきはそこにもうすでに無い。元々、事象や事物というのは我々の手で掬い取れるようなものではない。
それはさておき、アスファルトの上にされたわんこの大きいほうは、飼い主さんがしっかり掬い取って煮るなり焼くなり処分してほしい。足された用は充分な時間が経てば土に還るが、アスファルトの上でいくら踏みつけてみたところでアスファルトには還れないのです。