向田邦子の言葉

2020年の初頭にWHOはパンデミックにおける緊急事態を宣言した。少なくとも世界の主要国は3年近くの間、とにかく日々、使い捨てマスクを付けて新型ウイルスと闘った。特に2020年の最初の数ヶ月はヨーロッパ各国で市民の外出禁止を発令してまでとにかくウイルスの封じ込めを試みたが、パンデミックからほぼ4年が経過した2023年の年末でも残念ながらCovid19は健在である。消失することはなかった。

新型コロナウイルスとの向き合い方は国によって、あるいは国民性によって様々であるし、個人個人によっても千差万別であろうと思うが、ことイタリアに関しては風邪やインフルエンザと同等の扱いで、パンデミック以前のように街中でマスクを着用している人は見かけなくなった。

今年の5月にWHOは緊急事態宣言を解除したが、例えば日本ではパンデミック以前よりもマスクを着用する人は増えたのではないだろうか。国民性なのか、向き合い方は様々である。

イタリアでは最も大切な休日であるクリスマスを迎えるにあたり、スーパーマーケットや街中のマーケット、フランス語で言うマルシェも大勢の人で賑わっていたが、マスクを付けている人は1%に遥かに満たない数だった。おそらく1.000人に1人くらいではないだろうか。こうなってしまうと今度はマスクを付けることに躊躇してしまう。これは僕が日本人のために勝手に同調圧力なるものを感じてしまっているのかも知れないが、実際のところ、イタリア人は1.000人に1人のマスク着用派に対してどんな印象を持っているのか、僕にはわからない。そして、実際に僕自身が当該の1人になる際に、少なからず人目を気にしてしまうのは自分が日本人であるからなのかも知れない。自分だけ助かりたい、という狡猾さがあるように“他人から思われる”と思ってしまう。

そんなわけで日本人である僕は郷に入れば郷に従えとばかりにマスクをしない冬を過ごしていたのだが、クリスマスの今日の時点でこの冬は既にコロナウイルスに一度、一般的な風邪に一度感染してしまった。残るはインフルエンザであるが、さすがにこうなると、他人からどう見られようと少なくとも繁華街にはマスク着用で出掛けることにした。独り者の自分にとっては食事の用意や食料品の買い出しが必須であって、ただの風邪であっても体調が悪ければこれらの用足しが非常に堪えるのである。僕の場合、風邪やインフルエンザ、コロナウイルスでさえ通常は薬を服用せず、とにかく寝て快復を待つようにしているので、発熱しているときなどは食事の用意と食後の片付けがとにかく重労働である。

薬を服用しないので、体温計で熱を測ることもほとんどしない。自分の体温を体温計のように正確に感じ取ることはできないまでも、身体の調子でだいたい37度とか38度くらいだとわかる。インフルエンザの場合は一時、38度を超えるが、たいていの場合は半日程度で山を越えるので、とにかく寝て過ごすのみである。

コロナウイルスは厄介で、快方に向かっていると思わせておきながら再度一からやり直し、という具合に風邪の症状が長引いた。これまでにおそらく二度感染したのだが、一切薬は服用しなかった。他の一般的な風邪よりも予後の体力回復にも時間もかかった。

これらの流行病をもらってしまったときは昼間でもとにかくよく眠れる。身体は確実に体内に侵入した異物の対応に追われて、忙しく、効果的働くために、僕の意識を奪う。忙しいときには勝手なことはさせてもらえないのだ。薬を服用しないことで、身体がウイルスに対してどういう処置をするのかが実感できる。当然のことだが薬を服用するとどうしても身体の作用か、薬の効果なのかが判然としない。薬を服用しないことの難点はとにかく時間を浪費してしまうことと、場合によっては病気を悪化させてしまいかねないという点だ。浪費という言い方は正しくないかも知れないが、とにかくも充分に注意を払って自分の身体と向き合わなければならない。

ところで、ベッドの中で目が覚めているあいだ、短編小説の朗読など聞いて過ごしていたのだが、その中で作家向田邦子さん生前の講演会の録音を聞いた。

1981年にFar Eastern航空機の事故で惜しくも亡くなられたが、才能と、類稀な感性とセンスを持ち合わせた素晴らしい作家で、とにかく惜しい方を失ったとつくづく思う。

その録音された講演の中で、向田さんは言葉の怖さについてお話されていた。

言葉が怖い、ということ自体、正直ありきたりなようで胡散臭さを感じたのだが、向田さんのお話は実に的を得た、心底なるほどと納得させられる強い説得力に満ちたお話だった。

向田さんがお話のなかで取り上げたのは、1980年当時は相当騒がれたらしい、神奈川金属バット両親殺害事件のことだった。

この事件は1980年当時、非常に話題になったようで、今ではWikipediaにその詳細が記されている。少し話は脱線するが、Wikipediaでモバイルから1980年のとある事件の詳細を調べられるというのは、便利な時代になったとつくづく思う。以前であれば、こういった事件を調べるためには“現代用語の基礎知識”あたりの書籍を1981年版から80年版、79年版と順にみていく必要があったろう。あの分厚い本を毎年購入するとなると本棚もそれなりに大きなものが必要だろうから、僕の場合は図書館で利用するか、酷いときは書店で立ち読みして済ませたりもしていた。インターネットの普及でそれも必要なくなった。

話を戻すと、エリートの父親を持つ息子が、大学受験に失敗し続け、父親のキャッシュカードを無断使用したりするなかで、父親に愛想を尽かされ、勘当を言い渡され、いつも味方であった母親からもその時ばかりは「あんたは駄目な子だ」と追い打ちをかけられ、ついに凶行に及んでしまった事件である。

向田さんは言葉について、文章で書いたものは後で訂正したり、消すことができる、しかし会話のなかで発した言葉は取り消すことはできない、自分で書いた文章を後から読み返して、良く考えてみるともしかしたら適切でないかも知れない、と思えば消しゴムで消すことができるが、口から放ってしまった言葉を取り消そうと思ったら、会話の当人に謝らなければならず、謝った言葉がまた相手を傷つけ、汚れ、傷を深くする、と話されていた。謝ったその言い訳が相手に上手く作用する場合が全てではないのは、我々皆の知るところである。お母さんの言葉がもしも違っていたならあの事件は起こらなかったかもしれない、しかし言ってしまった言葉はもう消しゴムでは消せない、と向田さんは語る。言葉は自分の身を守ったりチャンスを得るための大きな武器になる代わりに、人を傷つける凶器にもなる、言葉は諸刃の剣である。人に小言を言うときは先に嫌なことを言って後のほうで良いことを付け加えないといけない、なぜなら後に言った言葉が結論になるからだ、とも話されている。これは菊池寛から学んだのだそうだ。この金属バットの事件で、図らずも追い打ちをかけてしまったお母さんが、その息子さんに何か一言でも救いの言葉を後に付け加えていたら、結果は違っていただろうと向田さんは言及する。

口をついて出てしまう言葉ほど時に相手に重く重く伸し掛かる。一方で伝えるべき一言がどうにも重くて終ぞ発することが出来ない場合もある。

僕らは裸一貫で居るにしても実は凶器を常に所持している、とどれほどの人が自覚しているだろうか。少なくとも僕自身は言葉の難しさを知った気になっていたが、まさに凶器そのものであるという事実には恥ずかしながら思い至っていなかった。

文章に書く場合と違って会話では通常、使われる語彙が非常に限られている。多くの場合、会話で使う我々の言葉は貧しい、とも向田さんは言及している。

母親が追い打ちをかける言葉を言わなければ、あるいはその後に救いの言葉をかけていたら、たとえ勘当されたとしても、最悪の事態には至らなかったかも知れない。事件を起こしたその息子は後の鑑定で発達障害を抱えていたとわかったが、当時はただ出来の悪い息子としか思われていなかった。不幸で不運な要素が幾重にも折り重なった末の事件だったのだろうが、言葉の関わりが重大な事件であった。加害者だった息子は13年の刑期を終え、出所している。

いつも彼の味方であった母親としても、かの言葉が文字であったなら、お母さんはきっとそのあと消していたに違いない。残念ながら僕らは人を実際に傷つけ、自分も苦しめられることでやっと過ちに気付く。

ところで向田さん、文筆業の傍ら、モデルとしても“秘か“に活躍されていて、彼女の死後にたくさんの素敵な写真が見つけられた。写真家の眼差しを向田さんが優しく受け止めている美しい写真ばかりである。そのなかで向田さんがBarnack LeicaのⅢ型を手にしているものがある。カメラ自体はもしかしたら向田さんの所有ではなく、撮影のために写真家が自分のサブ機材を持たせたのかも知れないが、実際のところはわからない。レンズは見たところLeicaではなさそうだがCanon製のL39マウントか。

Leica M typeは僕の憧れる機材だが、向田さんが握っていたのと同じBarnackはいつか手に入れたいと思っている。