ひとり

昨今、気候変動の問題が徐々に我々の生活を脅かしつつある。太陽系規模で惑星としての地球を見る場合、当然の事実として我々生物にとって地球が最も生存しやすい環境を備えている。しかし地上の個々の生命に焦点を当てると、生命活動に支障をきたすような気候変動は確かに現実のものとして表れている。地球の地表温度の一℃の上昇は、太陽系から見れば誤差の範囲以下ともいえる極めて僅かな変化でしかないかも知れない。現に地球はその誕生以来、数万年のサイクルで氷河期と間氷期とを繰り返していることを考えれば、気温が一定であることのほうが不自然なのだが、そうだとしても地上にいる我々生命体にとって一℃や二℃の気温上昇が生命活動に少なくない悪影響をもたらす。

環境問題を語ろうというわけではなく、視点の違いによって見えないことと浮き彫りにされること、その違いを考えている。

世界には様々な国があって、国土の広さも人口も、その密度も様々である。気候も土地によって様々であるし、国の治め方も経済活動の方針も千差万別である。

アメリカという国はうんぬん、ヨーロッパ諸国はかんぬん、などと一括りにされて語られることはしばしばあるし、国そのものに留まらず、アメリカ人は、中国人は、などと国民が丸ごと一括りにされることも少なくない。例えばアメリカ合衆国は三億数千万のアメリカ人がいる国家である。三億数千万人が須らく共有する国家的な国民性が、本当に有るのかどうか、甚だ疑問である。アメリカ人は・・・と一括りに語ることが出来るかのどうか、実際、なんとなく怪しい感じがしなくもない。

世界にはたくさんの国が存在していて、それらの国々に所属する各々の国民はそれぞれに人生を幸せに生きようと願って、日々それぞれの人なりに努力して毎日を暮らしていることと思う、

国家として見ればあまり好ましくないような独裁政権を維持している国家だっていまだに存在するが、だからと言ってその国の国民全員が生まれながらに不幸の闇に暮らしているのかと言えば、必ずしもそうではないはずだ。たとえ望まれない状況のもとでも若者は恋をし、一生を共にする人との出会いにこのうえない幸せを味わっているに違いない。家族を持つ喜びを知り、悲しみを分かつことへの本能的な要求を知り、切磋琢磨することの悦びを知るだろう。

国家も、社会も、企業も、小さな会社でも、一様にそれぞれ一括りにして、単体の何かとして判断することはできるのかも知れないが、しかしそれはあくまでも便宜上の仮の枠でしかない。繰り返すがアメリカには三億数千万人のアメリカ人がいるのである。そういうディテールは決して疎かにしてはならない。もちろん、木を見て森を見ず、という俚諺が示すように俯瞰した視点をなおざりにしてはならない。しかしながらディテールを知った上での俯瞰は壮大で多層的なヴィジョンになることは間違いない。

インターネットの普及が原因なのかどうかは分からないが、昨今、物事を括る言説に満ち溢れていると感じる。そしてまた、極めて多くの人が逆説的に、自分自身を個として評価してもらいたがっている。自分ひとりの個人が、単独で評価されることを切望しているようにうかがえる。当然ながらそのほとんどは望むような評価を受けていないようなのだが。それは至極当たり前のことで、世間全体が世の中のどこを見るにも、一括りにして見たがっているから、その微細なディテールである個人など見返す余裕は無いに等しい。当たり前の結果である。

アメリカ人は三億数千万人皆同じアメリカ人とされてしまっているし、独裁政権国家に生まれたら一生を不幸の闇の中で終えるしかない不幸な民と考えられてしまう。しかしながら我々はそれぞれ皆、一人の人間であって、アメリカ人も、世界中のあらゆる国家の国民も、我々と同じ、それぞれ一人ひとりが皆、一人の人間である。一人を見れない人間が一人としてフォーカスされることはおそらく無いだろう。