Form follows function

Form follows function 形態は機能に従う。デザインを学ぶ際に一度は耳にする言葉である。なるほど言い得て妙というのはこのこと、と考えるかも知れないが、実際のデザインの世界ではそれほど簡単に言い切れるほど設計は単純ではない。モノをデザインするうえで、その形態は機能に従ってさえいれば良いのか。あるいはまた、人それぞれに千差万別の顔があって人間性と同等にその人の容姿も重要であるという観点から、機能を犠牲にしても追及すべき形態がある、という立場で設計するか。

僕自身は彫刻制作を生業にしているが、作品の出来不出来を自分自身で判断する際の直感的な指標として、そこに命は宿っている(と感じられる)か、ということに一応の基準を置いている。もちろん、彫刻は完全に作為的に造られるものであるから、そこに命が宿ることなど絶対に有り得ない。強いて言うならば、あたかも命を宿したかのような絶妙な調和をそこに見出せるか、というニュアンスである。命はそれだけで正に神秘である。人の手でおいそれと造れるような次元のものではない。生命は産まれる場合も滅する場合も我々の意図と関わることの無い、アンタッチャブルな存在だと僕は考えている。

生命は神秘である。ダーウィンの進化論を筆頭に、今も尚、その神秘の謎を解き明かそうと様々な研究がなされている。環境との関係性における多様なファクターによってもたらされる、いわゆる進化やそれとは反する絶滅、その経緯を理解することで種の起源を解明しようという試みである。

ヒトという種は、ホモ・サピエンスに属する。現在ではアフリカ起源説が最も有力らしい。日本人であろうがロシア人であろうがインド人であろうがセネガル人であろうが、我々すべての生みの親を順に遡っていくと皆、祖先はアフリカに住んでいたホモ・サピエンスという単一種族に由来するという説だ。ホモ・サピエンスがアフリカを離れ、人類が世界中に散らばり始めたのがおよそ6万年前とのこと。もちろんすべては科学上の仮説で、現在の知見と科学技術では完全に実証することのできない太古の話である。我々の遺伝子の中には絶滅してしまったネアンデルタール人の遺伝子の一部もあるようで、それがホモ・サピエンスとネアンデルタール人との交配によるものか、あるいはホモ・サピエンスとネアンデルタール人には共通の祖先が存在したのか、現時点ではどちらの説も確証はされていないようだ。

デザインの話から人類の起源に話が逸れてしまったが、言及したいことはつまり、卵が先か鶏が先か、という命題である。

“生まれ“を辿るというのは、僕らの想像力を超越する神秘であると僕は割り切って考えている。モノづくりに関わると必然的に卵だけでも鶏だけでもなく、どうしてもその両方を想わないわけにいかないが、卵か鶏かを突き詰めようとすると一方が他方へ、あるいはまたその逆へという循環のジレンマに陥る。そして僕はそもそもの問いがまずいと考えを改める。

人為的に造り出されたものに対して、そもそも造ったこと自体が無駄だったのではないか、という疑念は常に生じるもので、その疑いを振り払うために、産まれるべくして産まれるもの、つまり命の必然を考えずにはいられない。人為的に造られたものに、生命らしさが宿っていれば、たとえ人為的ではあっても造った甲斐はあった、と自己評価し得るのである。しかしながらこの評価基準はすこぶる主観的で、実質、客観性や必然性は担保できない。生命らしさという基準はどこまでいっても主観の域を超えない。

ここまでくるともはや避けては通れないヘッケルの反復説を紹介したい。

「個体発生は系統発生を繰り返す」と要約されることが多いが、つまり、今あるカタチに至ったのは、その祖先の生命誌の全ての背景が省かれることなく、しかも直接その基礎を形成している、という趣旨の仮説である。生命の遺伝子情報はあまりに膨大で、その規模を何か別の尺度に置き換えてイメージすることは難しいが、それでも、生命は生まれるべくして生まれ、そのカタチは成るべくしてそう成り立っていると、ヘッケルの反復論を信じるならば想像することができる。

奇を衒って成功することが難しいのは、それが成るべくして成っている必然をイメージさせないからかも知れない。奇を衒って成功する場合は逆に、どこかしらに必然を予感させる要素が基礎を成しているのかも知れない。

忘れてならないのはヘッケルの反復説の、「系統発生を繰り返す」という部分で、つまるところデザインの根幹は、それが何の系統に属していて、その系譜をどこまで遡れるか、その枝葉を如何に深く鮮明に直覚できるかにかかっているのではないかと思う。

発生には常に見えない必然が潜んでいるらしい。突然変異は何でもアリなのでは、と問われたとしても、そこにもやはり限度はある、と僕ならば考える。