世の中の真実

養老孟司さんの著書の中で、客観的な事実の有無、という趣旨の話を読んで考えさせられた。

交差点で自分の運転する車が運悪く、別の車と接触事故を起こしてしまったとしよう。自分も相手の車にも保険がかかっていて、双方の保険会社が介入して自己の過失割合を、その当時の状況から判断して決定する。その過失の割合で当事者たちは大概揉める。お互い主張が食い違う場合が多いからだ。

そこで第三者として客観的な視点に立って、警察は事故の状況を分析し、おおよその状況を把握するよう努めるが、如何せんほとんどの交通事故は事故当時に警察が見ているような場合は皆無と言ってよい。なので、事故を客観視するのは結局のところ推論である。

では、実際問題として、起こったことの真実は検証可能なのであろうか。否、検証可能かどうかよりも、世界で起こるあらゆる事柄は誰にとって唯一なのであろうか。

この世界はじつは全て、個人個人の視点で成り立っている。神の視点、唯一の真実は残念ながら誰にも確証のしようが無い。唯一の真実によって世界が動いているのだとしても、誰がその世界を直視できるのか、あるいは真実の世界の出来事に則って誰が生きていけるのだろうか。

例えば二人のあいだで起こりやすい揉め事の一つに、やったやらない、言った言わない、といういかにも客観的判断の難しい問題がある。大抵の場合は双方共に自分の記憶を信じ、揉め事に発展する場合の記憶の内容は、お互いに真逆である場合が多い。

複数台のビデオカメラがその現場をおさえて録画していれば理想的だが、そうは問屋が卸さない。自己釈明に便利な録画ビデオが無いにもかかわらず、当事者たちはお互いに自分の正当性を主張する。あらゆる努力をしてもあらゆる検証をしてみても、真実を録画した神の視点のビデオは存在しないのだから、この出来事を収束させるには何か別の手法に頼らざるを得ないのではないか。

僕にその答えが用意できているわけではないのだが、神の視点は誰にも持つことはできない、ということならば言える。多くの人たちはむしろこの神の視点、唯一の真実を知ることが出来る、あるいは知っているとさえ思っている。世の中の99.99%の人は、この世界に起きている真実と共に歩んでいると信じていることと思う。

しかし実際には、我々が見ている世界は、どれも悉く一方的な狭く限られた自分一人の視点でのみ構成された矮小な世界なのだ。

お気づきだったろうか。

世の中、80億に至ろうとしている全ての人たちの誰もが、皆それぞれに主人公を演じている。それで世界を丸く収めるのは考えただけでも大概無理がある。

だから、世界を平和にすること、今日を穏やかに生きること、誰かの幸せを願うこと、この世の誰もが求め望むことは、じつはこの世で最も難しい問題でもあるのだ。