動物としてのヒト 4:動物としての人間

さあここで話を出発点に戻したい。

動物の仕草が人間のそれとよく似て見えるのは、つまりはその動機にあるのではないかと思う。

結局は、動物も人間も、何かにワクワクして、何かにドキドキするのだ。

子供にとってかくれんぼが楽しく、上手いこと隠れることに成功しているときのワクワクする気持ちと、狩りをする野生動物が気付かれないよう身を潜めて、文字通り、虎視眈々と獲物を狙っているときの感情と、心の動きは双方のかなりの部分で共通しているのではないのだろうか。そういう観点から言えば、かくれんぼは、その遊び方のルールが出来る前から自然界に長く受け継がれてきた動物の行動様式であって、ワクワクするその動機は、生きるということそのものと深く直結していると云える。

 

良い企業に就職することで得られる生活の保障と、ワクワクすることで生命そのものが動機づけられて得られる充実感とは、話の次元が違う。

ここでいう動機とは、得られるだろう成果を目標に目的的に行動するというより、目的よりもかなり先行してワクワクが先にあるような行動の原動力だ。

日本人のお百姓さんたちが、毎年、昨年よりも良いお米を作ろうと向上心と好奇心をもって稲作に従事することと根本的には同じで、ワクワクすることは生きることに直結するのである。

稲作がただの苦痛以外の何物でもなければ、日本人はとうに滅んでいたに違いない。

もちろん、数ヶ月のあいだ毎日毎日、手入れを欠かすことが出来ない稲作である。栽培における忍耐は収穫を終えるまで続き、すぐさま次の年の種籾の選別が始まるわけだから、事実上は、忍耐と日常生活は永遠に並行して共存するのである。

とにかくも、現代人が考える以上に、生物にとって生きることとは、常に忍耐に裏付けられながらも、其の実、ワクワクするものだったはずなのだ。そして、われわれの日常、つまり生命活動は最後まで忍耐を強いられる運命にあって然りなのである。

 

バタフライエフェクトよろしく、SNS動画から話が思わぬ方へ飛んでしまった。

話のまとめにはならないが、とにかくも、恋人や家族や友人に対するように、植物や動物、環境に対して、もっともっと愛情豊かに接していきたい。動物愛護という意味ではない。

我々自身が動物である。

地上に共に生きる同志として、他者に対して敬意と尊重をもって接していきたい。その他者とは自然という意味である。

心からそう思う。