都市に潜むもの

 現代社会は兎角、世知辛いと云われる。生き辛い世の中なのはひとえにその複雑な社会構造、人間関係である。いわゆる先進国であればインフラはもう既に整い過ぎているほどで、日々の生活は都会であれ田舎であれ、生存を脅かすような状態ではない。世知辛いのは都市構造ではもちろんないのだ。

 Torinoという街は歴史ある都市である。世界屈指といえるものは特に何もないかも知れないが、かと言って居心地の悪さは感じさせない。おそらくはイタリア共和国の最初の首都であったという歴史もそれに貢献しているのだろうと思う。この都市を覆う極めて汚染された大気以外には目立った陰性も無い。

 街として固定されているのはそこに建設された建物群と、整えられた道路などのインフラストラクチャであり、街の中核を成す大切な要素である。翻って僕は、元日の早朝など、誰一人として歩いている人も無く、一切の自動車も行き交わない、あの特別な時間がとても好きだ。しかしながら、24時間365日、ずっとその状態が続いたとしたら、街は瞬く間に荒廃してしまうだろう。我々日本人は福島でそれを経験した。2011年の大震災で原子力発電所が爆発したからである。都市がその姿を保っていられるのは、そこで生活する人々の存在あってこそである。

 人間は社会を形成する動物である。家族、職場、自治体、国家、様々な階層の、あるいは複数のジャンルの社会に同時的に参画する。それぞれの社会で求められる立場で役割を担い、一人ひとりが他の誰かと役割としての需要と供給を補完し合う。それによって様々な階層の、様々なジャンルの社会は新陳代謝を維持してそこに存在し続ける。

 社会を健全に保ち運営するには、それぞれの構成員が望ましい方向に向けて、何はともあれ協力できているかにかかっている。一方で、それぞれの社会は、今の時点でそこに在るものを利用することで、落としどころを見付けなければならない、という現実に左右されるのもまた事実である。いずれにしても個人個人の能力、意志、成熟度は社会の健全性にとって問題になるに違いない。

 人類は太古の昔から社会を築いて、繁栄と衰退を繰り返してきた。どんな時代においても、良好な人間関係の構築は人類の最大の関心事であり、同時に難しい問題でもあった。世界的に発展した主要な宗教は、その教義の中に隣人を愛することを説いている。しかしながら場合によっては一日に数十人、あるいは数百人の、見ず知らずの人々とすれ違う生活が当たり前の現代社会において、隣人愛という言葉の曖昧さを感じたり、あるいは直感的な限界を察知している人も少なくないのではないか、と僕は疑っている。現代社会の生活は、ある意味では崖っぷちすれすれのところで機能していると言えなくもない。見ようによっては一歩踏み間違えれば、直ぐに惨事が起きてしまいかねない、圧迫された状況にあるとさえ言える。

 僕がTorinoの街に移住してすぐに感じたことは、街を行く人々の姿の健やかさである。もちろん、そうでない人も見かける。他人への迷惑を顧みない人や、自分の要求ばかりを押し通そうとする人はどこに行っても一定数散見される。僻んでいたり、恨みを持っていたり、何か焦燥に駆られている、と感じられる人を見かけないわけではないが、健やかに街を歩いている人も同様に、あるいはそれ以上に散見される、そんな印象を受けた。

 我々は日常生活の中で、身近な存在からはいつも優しいの言葉が欲しいし、大切な人からは記念日を誰よりも早く祝ってほしい。親友と呼び合う仲であれば、他の人には相談できない悩み事を聴いてほしいし、自分の意見を否定せず全面的に肯定してくれることを、相手に求めたりする。そういうことのいちいちが、人からの愛情を期待する現われなのかも知れず、人は結局、社会の中で関係を持つ者同士である種の愛情を受け、同じく与え、交換し合う。そのことが人間の関係性を健全に保つ手段と考えているのだろう。トリノの街を歩きながら、僕がはたと気付いたのは、自便自身が健やかで居る、あるいはそう振る舞う、ということそれ自体がもしかしたら隣人に対する敬意であり、さらには隣人への肯定ではないだろうか、ということである。肯定とはつまり、排他的に振舞うことの反対の意味である。

 人の親切とは、例えばパートナーの愛の言葉に見出せるし、誕生日に送られる友人からの祝いの言葉にも見出せるだろう。あるいは落ち込んでいるときに愚痴をいつまでも聞いてくれる親友の我慢強い姿勢もその一つといえる。しかし、街を健やかに歩くこと、それ自体も立場を変えれば他者への親切ではないだろうか。険しい顔をして、卑猥な言葉を発する人を見ると、我々の気分はどうしたって曇ってしまうものだ。だからたとえ気分が落ち込む日でも、すれ違う人の心の安定のために、我々一人ひとりは健やかな自分を演じながら街に出る、ということが大切なのかも知れない。そういう人々によって形成されている社会は、たとえ最先端の街並みでなくとも、人々に愛される場所を自然と形作る筈である、そう思い至った。

 街中で無作為に写真を撮る。ストリートスナップは既に写真における表現方法として確立しているが、たまたま撮影された側の立場に立てば、見ず知らずの人間からカメラを向けられ、勝手に撮影されることに嫌悪感を覚えるのは、ある意味で当然である。撮られる側としては、たまたま運悪く、よりによってこの自分が被写体になってしまった不遇の瞬間であり、しかも私という個人の人間性を無視して、単にモノ扱いされているかのような、見られたくも無い一面を盗み捕られたかのようで、無礼な行為に思えてしまう。極めて真っ当な感覚である。

 ことストリートスナップの場合、その写真が何かしらの手段で公に発表される場合を考えると、ますます問題はややこしい。自分の存在がどこの誰かも分からない人間の営利目的に利用されるかも知れない、という懸念が発生するからである。無関係な自分の存在が見ず知らずの他人に利用されることなど、全く同意できないが、にも拘らず、良否を問われることも無いまま無許可で公開されてしまったりするのが、もしかしたら実情なのかも知れない。

 そういった内実を孕んでいるという事実を踏まえて、それでもなお、僕は街の撮影を続けている。それは僕の表現活動の一環であることはもちろん、街を撮影する際にレンズを向けるその状況とその瞬間に、シャッターを切る必要性を信じているからである。

 もちろんその行為は撮影者の自分の責任で行っている。

 街が街として息づく背景に欠かせないのは、そこに住まう人々そのものである。人々の成熟度は街そのものの成熟度を支え、街のディテールの大切な部分を形成している。それらのディテールを撮影して写真として“固定”することは、そこに住まう人にはもちろん、その街を知らないあらゆる人々にとって、延いては将来の人々にとっても必ずポジティヴな影響を与えると僕は信じている。

 街中で、風景の、あるいは人々の佇まいを撮影するとき、シャッターを切るきっかけとなるのは、そこに見える美しさであり、愛おしさであり、愛らしさである。特に被写体が人物の場合において、その人の仕草や振る舞いから垣間見れる人間性というものは必ずあって、宗教的に隣人愛を唱えずとも、人は誰しも別の誰かを惹きつける魅力と、それによって愛を受け取る力を、皆持っているのだと気付かされる瞬間がある。シャッターを切らなければならないその瞬間は、須らく、被写体がカメラの存在を気づいていないか、もしくは撮影されていると認識する、ほんの一瞬前までの、儚い時間に限られる。なぜなら人は、見られていると意識したその刹那に、世界の構成要素としてのディテール、という立場から、一人の個人へと立ち位置を変えてしまうからである。そういう必然的な理由から、撮影前に被写体の方々に撮影許可を取ることは、残念ながら出来ないのである。

 撮影をアナログフィルムで行なうことは、場合によっては、写真そのものの価値を変える要素になるかもしれないと感じている。フィルムの場合、ひとつひとつの写真にはデータとして画像以外に何も残されない。時間も、位置情報も、撮影時のカメラの設定すらも、何も記録されていない。しかしながら36枚撮りのフィルムの中には、撮影者の足取りが読み取れるし、撮影者の感情の起伏さえもそこから感じ取ることが出来ると思う。逆説的にデジタルの写真には様々なデータが数量的に残されるがゆえに、情報は有限化されてしまうが、フィルムには、そこから物語を膨らませる余地が内包されている、とさえ言えるかも知れない。

 僕は現代の資本主義や民主主義に全幅の信頼を寄せているわけではないし、それらのシステムには既に限界が来ているとさえ思っている。とは言いつつも新たに到来するだろうシステムがどんなものかというのを予言できるほど、僕は政治や社会のシステムに明るくはない。社会に生きる人間は、どうあれ、一人の個人であると同時に、全体の中のディテールとして存在している、という現実も忘れてはならないと考えている。社会に参加することは同時にディテールとしての責任と覚悟を持たなければならない、という意味である。

 法律的には、撮影された写真は、撮影に使われた機材の所有者の持ち物と見なされる。性的な表現のような逸脱した内容でない限り、没収の対象になるようなことはない。しかしながら、写真が、撮影者個人がしたためた記録として保管されている状況から、一転して、公の場に展示される、という状況になれば話は変わってくる。写真の中に被写体として映された人が、展示に対して不服を申し立てることもあるかも知れない。そういう状況に至らないように事前に配慮することはもちろん大切であるが、全てをコントロールできるわけではない。僕個人としては、少なくとも被写体になった人の各々が、それぞれの写真を素直に好感を持っていただけるだろうものだけを厳選する、というタスクを自分に課している。そのタスク自体が僕の独り善がりの判断でしかない、と言われれば反論は出来ないし、実際にその通りである。撮影する者と、撮影される者とが、ひとつの写真に対して全く同じ気持ちで対峙できるなどと、楽観視しているわけではない。そこに必ず生じてしまうだろう齟齬を、知らぬ振りをすることは出来ない。撮影者として背負っていかねばならない葛藤であるのはもちろん、撮影者個人が背負わなければならない責任である。

 写真は物体になった瞬間から、交換可能な所有物へと変身する。資本にすら成りうる。そういう場合に事態は複雑な様相を呈する可能性は十分に秘めているわけである。ただ、そういう難しい現実と引き換えにしてもなお、後世に残したいと信じられる、価値ある世界のディテールが実際に存在している、というのもまた事実であり、僕はそれを確信している。

 撮影者として僕に出来ることは、被写体となり得る全ての人々に対して敬意を欠かさないことはもちろん、写真に撮られる人、その写真を眼にする人、いずれにおいても誰かの名誉を傷つけてはならない、ということに細心の注意を払うことである。それはシャッターを切る瞬間は当然ながら、セレクト、画像調整という全てのフェイズに一貫して保たれなければならない。

 我々は日々、取り返しのつかない時間を置き去りにしながら生きている。人生が成熟するのはまさにその時間の積み重ねそのものである。自分にとって愛おしい時間も過ぎていくし、見知らぬ誰かにとって尊い時間も同じように過ぎていく。そのなかで、偶然にもシャッターを切ることが出来た刹那の、見過ごされがちな重要な時間の一つ一つを、僕は大切に後世に残したいと思う。