自明であること
現生人類の祖先であるホモサピエンスはアフリカが起源とされている。世界中で発掘発見された原人の化石には、ホモサピエンスと異なる起源を持つものが多く出土されたが、それら全ての原人たちはその遺伝子を残すことなく絶滅している。
初期のホモサピエンスが世界に拡散する以前にアフリカで数を増やしていた頃、文字は発明していなかったはずだが少なくとも喋り言葉は身に付けていた。おそらくはそれが理由に、現在の我々が使っている世界各地の言語は、とにかくも言語間での双方向の翻訳が可能である。現代では動物行動学の研究成果で、野鳥も言語らしきものを身に付けていることが判っている。しかし彼らの言語らしきものは今のところ、人類の使う言語と双方向の互換性は無い。
人類は20万年前にはすでにこの地上に暮らしていたとされている。12万年前のホモサピエンスの化石がイスラエルで発見されているそうなので、我々の祖先は少なくとも15万年前後のあいだ、世界中に分散しながら生活圏を開拓した。生まれた場所に残る者たちとは別に、そこに出戻ることをしないまま、只々、未踏の地へとテリトリーを拡大していく集団が常に存在した。各々の集団の中で我々の祖先は独自の方言を発展させていったことになる。
生物の進化の過程は地理的な条件に左右されやすい。距離的には近接していても、山を一つ越えたり、川を渡ると、元の場所では見つからない昆虫の形態が観察されるそうだ。これは遺伝形質に関わるものだが、人間の場合は文化的な形質も地理的条件に左右される。一山超えると栽培植物の様相が変わる場合もあるし、そうなれば必然的に言葉の発展にもそれが影響する。気象条件が変化すれば喋り方の癖も変わってくるし、使うに便利な単語も自ずと異なる筈である。方言が持つ個性は集団の定住性と生活条件の違いに因るのだろう。
人類はアフリカから東欧あるいは西アジアへと進出し、別の方角には、地中海周辺と以北の西ヨーロッパへも進出した。陸からの移動だけではなく、筏や船を作って川を渡り、海にも漕ぎ出した。ユーラシア大陸の北東端から北アメリカ大陸へと渡り、南アメリカ大陸の最南端にまで到達した。その移動も旅客機で数日のうちに移動したのではない。数万年という時間をかけて、徐々に移動したのだ。つまりは一人の人間がこの旅程を踏破したわけではない。数千世代の更新の末、ヒトはアフリカからパタゴニアまで旅をしたのだ。考えてみれば、我々の祖父母や曽祖父母といったように世代を遡ると、一万世代も遡ればきっとアフリカ人のお爺ちゃんやお婆ちゃんに行き着く。遠い過去の話ではあるが、数えられないほどの太古の話でもない。
この一万世代のあいだに世界中で数え切れないほどのカップルが誕生し、愛し合い、二人の特徴を混ぜ合わせた命が誕生してきた。親から子へ、子から孫へと、元あった特徴を足して割った子が命として受け継がれていくのと並行して、言語も次々と新しい要素を混ぜ合わせながら受け継がれた。一万回の世代更新によって元あった姿かたちとはかなり変容したものの、我々は日本人であれデンマーク人であれエチオピア人であれインド人であれ、ヒトと認識できる。言語においても外国語を初めて耳にした瞬間はそこに共通項などある筈もないと疑うだろうが、デンマーク語は日本語に翻訳できるし、インドネシア語にも翻訳できる。
興味深いのは、アフリカ時代にもともと使われていた言葉は、世界各地に進出するあいだに様々なアップデートを受け、言葉そのものが変化してしまったことである。しかしながらその語義は共通している。アフリカ時代の人類がどれほどの語録を有していたのかを僕は知らないが、世界各地に拡散しながらそれぞれの土地で発明された単語と、アフリカ時代から受け継がれた単語とを並行して使っていたはずだ。あらゆる単語はきっと生物進化の形態と同様に、ほとんど跡形もないほどに変容してしまったろうが、アフリカ時代から受け継がれて今もなお、そのかたちを維持しているのは文法だろう。主語述語、動詞形用詞、名詞代名詞、現在過去命令形、どの言語でもこれらの要素が基盤にある。アフリカ時代には目にすることのなかった植物や動物、あるいは自然現象や環境は、その都度、新しい土地で新しい単語として生まれたのだろう。アフリカ時代から風や雨、といった言葉は有ったろうが、オーロラは無かっただろうし、白夜という単語もきっと無かったに違いない。氷河はアフリカでも見られたのだろうか。
アフリカ時代の第一次世代単語のほとんどは、世界各地に拡散したヒトと一緒に拡散されるあいだに、きっとその様相を様変わりさせたのだろう。デンマーク語のvindと日本語の風は、意味は同じと言って良いが発音は全くの別物である。この二つの単語が同根語なのかどうかは知らない。英語のwindはゲルマン語系統だから似ているけれど、風に似た発音の単語は日本周辺のアジア諸国にすら無いようだ。
明らかに元の言葉が共通していることが判る単語は沢山ある。イタリア語の星はstellaで、英語ならstar、古代ギリシャ語ならastērだそうだ。興味深いのは、語源は共通していても、時代、地域と共に意味が変容してしまった単語もあることで、例えば英語の”actually”をイタリア語に翻訳すると”in realtà”となり、イタリア語の”attuale”は英語では”current”となる。英語の”embarrassed”はイタリア語の”imbarazzante”(当惑する)だが、スペイン語の”embarazada”はイタリア語の”incinta”(妊娠する)である。ヒトの歴史と文化の発展は文字通り非線形である。
当たり前のことなのだが、単語は事実に対して後から付帯される。神に近い偉人が風という言葉を発明して、その後に世界に風が吹き始めたのではない。風は人類が誕生する以前から地上に吹いていた。この地上には木があり、草が生え、花が咲く。それらをヒトは区別して互いに別々のものとして捉えていた。いつかの時点でそれらを言葉にして、眼で見るだけでなく、手に取るだけでなく、頭で認識できるように独立させた。言葉として拾い上げたことをきっかけに、そこに意味という性質、特性を付帯させることも発明した。そうして分類出来得る限りのあらゆる物事が言葉として分離され、実世界から認識へと移動された。悉くに意味が与えられ、人間の頭には眼前の世界と並行して認識の世界も構築された。
「美しい花がある、花の美しさという様なものはない」と言ったのは小林秀雄であるが、その解釈はいろいろ出来るにしろ、この言葉から判ることは、ヒトはどうやら花という物体だけでなく、美しさという状態も判別して、そうでないものと区別していた、ということだ。その区別は自分たちの生活にとって見過ごせない様相であるとヒトは判断したに違いない。小林の言葉はなんとなく、卵が先か鶏が先か、という類の問答のように聞こえなくもないが、しかし非常に重要な世界観を表明しているのは間違いない。いずれにせよ、ヒトはこの「美しい」様相をそうでない様相と区別したのだし、しかも言葉にした以上は遅かれ早かれ、その言葉は意味の付帯を必ず要求する。花そのものが意味の付帯を熱望することはあり得ないが、ヒトにとってはそれが無いと一向に落ち着かない。
美しさという様相があらゆる存在に独立して成立するのか、あるいは美しさはそれ単独では姿かたちも空間を占領することもなく、ただ存在の現れ方としてだけ、表現形態に作用する現象なのか。
美しさが言葉として分離されたのはアフリカ時代の第一世代言語からなのかどうかは判らない。固有名詞であっただろう美しい“花”から形而上の概念として美しさを分離させたヒトは、既にある程度、洗練されつつある文明を築いていただろうことは想像に難くない。この言葉が花から直接由来したというわけではなく、ある日の夕焼け、ある女性の容姿、あるいはその仕草、朝霧に霞む草原、雨後の虹など、存在や現象の内側に区別するべき共通項を見出したのだろう。
美しさと同様に、ある様相が形而上の概念として分離されたものに、調和という言葉もある。
芸術家が制作しようと踠いているものは、それを表現する以前に、何かしらの、いうなればそこに美しさ、あるいは調和を宿らせるための躯体を、どこかから間借りするなり拝借しなければならない。その手段を前もって先人たちは発明してくれている。絵画であり、音楽であり、演劇であり、文学であり、彫刻がそれである。それぞれの芸術家がそれぞれの分野で、各々の方法で美しい花を生み出そうとしている。もしかしたら小林の言うように、作品の美しさという様なものは元来ないのかも知れないが、美しいものとそうでないもの、あるいは調和のあるものとそれが欠けているものとをヒトは太古の昔から区別してきたという事実が、今でもわれわれに制作する動機を保証してくれる。
作品に意味を付け加えるかどうかは作者の好きにすればよいが、なんにせよ、この世界にはヒトが生まれる以前から、美しさはなにかの存在や現象と共に元々あったので、しかも、そうでないものと自明のうちに区別できる様相だったのだ。だから根本的には、芸術家の創作は、それが真っ当に創られたのであるならば、そうでないものと自明に区別され、作品の存在はつまるところその事実に支えられる。意味が付帯されたとしてもそれは常に後追いである。例えば美しい花から美しさだけを抽出したり、美しさを見捨てて花の骨格だけを抜き取ることが出来ないように、人間の創作は、その作品と不可分の芸術性が一体混然として、その性質だけを個別の要素として捉えるのはほとんど捏造に近い。そう考えれば作品がその存在をもってのみ美しいというのが当たり前であって、先人たちの発明によって見出された手段を用いて表現される作品は、そのものはもちろん、動機においてもヒトの行為として必然性がある、ということだろうか。
近代以降ではそこに表現される芸術性も、単に美しさや調和という様相にとどまらず、あらゆる様相が表現の対象になっているが、そこに通底するのは意味以前の動機である。何故ならヒトは、“そうでないもの”と自明のうちに区別する志向性を内に秘めて生まれるからで、それに鋭敏である場合は尚更に“そうでない”状態ではいられないのである。

