儲かるシステム 弐
人間を夢中にさせるもの、あるいは熱狂に向かわせるものを例えに挙げてきたが、エンターテインメントはそもそも人間が熱狂するものを意図的に作り上げたものだ。プレイヤーはもちろん、主催者側に利潤が生まれる仕組みが巧みに設計されていて、プロスポーツもこのエンターテインメントに属する。猟師のサンティアゴのような狩猟行動は、それ自体が生存に関わる重大事なので、人間はそもそも狩猟行動に熱中しなくてはならない、つまり中途半端にそれに向き合っていれば明日の命さえ危うくなってしまう。一方でカモメのジョナサンの、頑なに意志を貫く行為は、生存を保証することとは根本的に無縁のように見える。ジョナサンの物語はカモメを主人公にした絵空事で、もしも実際にジョナサンのような人間が実在したなら、狂信者として扱われてしまうかも知れないが、しかし実際はこの、美しく在るという意志は、人類にとって何かしら無視できない要素のように感じられ、それは人間以外の生命全体に共通する志向性にも関係しているように見える、と前述した。
人類社会でそれが思い当たるのは首長、つまり頭の存在である。社会を形成する人類はそれぞれの集団に頭による統率を必要としてきた。現代社会では国を治めるのは政治家だが、歴史的には王や貴族、皇族がその役目を担った。社会の規模が小さくなれば、その集団に見合った統率者がそれぞれに必ず存在し、そのおかげで社会は自治を可能にしてきたし、今もなおそうである。そして頭となる人物は人を束ねるのに必要な威厳を備えていなければならない。歴史に名を残した偉人たちに限らず、例えば縄文時代の小さな集団でも、頭は皆から尊敬を集める人物であったに違いない。現代のように報酬を与えることで部下を従えていたわけではない筈だ。威厳のある頭と忠誠心のある民は義と礼を互いに交換していた。礼を重んずることがなければ集団はいつしか瓦解していたのだ。その義や礼の元にあるのがつまりは美である。
文明が進むにつれ、人類にはある程度の規模の社会があちこちで発生し、ある社会は他の社会と敵対するようになり、そこで争いが起こるようになった。その争いの、規模の大きなものが戦争である。歴史的な名将たちは、その作戦がいつも敵国のそれより優れていたというだけにとどまらず、自ら率いる兵からの信頼と忠誠を集める人柄だった。兵を束ねるのに報酬だけでは足りないというのはこのことである。ただし、どんな将軍も、いくら人格的に優れていても無敵ということはない。戦における戦術や作戦の大切な要素として、敵国の想像を超える戦法を見出すことも重要だった。相手の裏をかく、というのはつまりは騙し合いである。その狡猾さも戦において不可欠な要素である以上、いつかは自身も騙される運命にあるのが戦争に関わる者の運命でもある。そのために将軍が長くその立場に居座ることは戦を続ける限りほとんど不可能である。
ナポレオンが度重なる戦いに勝利し続けられたのは、彼が打ち出す作戦が敵国よりもいつも優れていたことだけにとどまらず、彼の精神性が兵隊一人ひとりの魂に火を灯していたのかも知れない。そしていつかの時点で、戦争に関わる者の法として、何かに足元を掬われてしまった。軍隊における兵だけではなく、集落における民であっても同様で、発展成長する集団の陰には内部統率に欠け、失速瓦解する集団があった。誰もが気付かざるを得なかった強いものと弱いもの、優れたものとそうでないものの違いは、結果的に人をして美に向かわせることになったのだろう。前述のように義や礼の元、あるいは先にあるのが美であるとするならば、ジョナサンの精神性は生存戦略と直接的には無縁だが、生きる者の定めに通づる何かは背負っている。完全に無縁であるとは言い切れない。
コロンブスが船で大海に探検に出て、インドやアメリカ大陸を発見したのは15世紀終盤である。ヨーロッパから大陸伝いで探検するにはいつも回教徒の国々がそれを阻んでいたから、海に出る以外に探検は不可能だったのだろう。中世までのヨーロッパは互いに戦争していたものの、騎士のあいだには常に礼儀を重んずる慣習があった。しかし、新大陸発見以降、ヨーロッパ人たちは新大陸で生活していた土俗の民を野蛮な民と見なして、彼らに対して礼儀というものを払わなかった。その扱い方が正しく、土地を奪うことすらもそれが文明の役割だと信じて疑わなかった。その精神で一切が可能になり、一直線に進められたのが侵略的植民地支配であった。そして世界は後に帝国主義の時代を迎えることになる。
18世紀後半にヨーロッパでは産業革命が起こり、技術で先行するヨーロッパ諸国は国家を挙げて工業化を推進した。その原動力として要求されたのは物的あるいは人的資源の調達元、つまり植民地の更なる拡大である。日本は自国の被植民地化を恐れて維新を敢行し、民主主義や資本主義を国家運営の方針として取り入れて、ヨーロッパ列強の軍国主義に習った。
江戸時代までの幕藩体制は島国日本を治めるためのものだったが、黒船が来航して、世界の広さと強さをまざまざと見せつけられた日本は、世界における日本を確立するために髷を捨てた。勇猛果敢な志士たちが世界の列強に学ぶために現地に長期滞在しながら外国語を習得し、工業のあり方、軍事力の何たるかを実際に目の当たりにし、それらを学んだ。沢山の現地人有識者を高い報酬で直接日本に招いて、直に教えを乞うて、近代日本という国家を一から作り直した。
主導権を握るいくつかの列強国と、その植民地として搾取されるアフリカや南アメリカの国々、帝国主義はいよいよ列強同士の支配権争いに発展していくが、日本はどうにかして自国への侵略を防ぎ、全身全霊を賭けて独立国としての立場を維持しようとしていた。黄河文明を起こし、東アジア諸国のなかで他国をリードし、日本を文化的に長い間支えてきた中国は、英国に良いように弄ばされた末に、支配され、すでに精彩を失っていた。島国の日本は、その地理的な特性から大陸からの侵攻を食い止める防御壁を列島の外に設ける必要を感じていた。大陸側から囲われてしまったら、島国の日本は袋の鼠だからである。列強の侵入を防ぐための砦を朝鮮半島、台湾に築くべく、日本は大国相手に二度の戦争に挑んだ。そして、その両方の戦いに何故か勝利した。当時、世界はどの国においても帝国を作るために世界中の土地を探って勢力拡大に東奔西走し、およそ世界を見終えていた。世界の実情をある程度見渡してしまった後は、それぞれの国家同士で、各々の立場を明確化するべく外交が重要視され始めた。西洋人の世界進出によって世界が新しく造り替えられようとしている最中に、黄色人である日本人が、どういうわけだか大国清とロシア帝国を立て続けに戦争で破り、極東島国の小さな猿として世界の舞台に台頭したのである。
小さな島の中だけで争いを治めてきた幕藩体制に結局、自分たちで見切りをつけ、近代化に乗り出した猿たちが、帝国ロシアに勝利した日露戦争までわずか38年。この短期間のうちに日本の猿は近代化をやってのけた。二つの戦争の両方を奇跡的にも勝利へと導いたのは、日本だけの功績ではもちろんなく、清国、あるいは帝政ロシアの台頭を嫌う他国の思惑も少なからずあってのことである。特に日露戦争においては立場的にロシアに勝利されては何かと都合が悪いいくつかの列強国のおかげで日本の下克上がまかり通ったわけだが、たとえそうだとしても、ヨーロッパ諸国やアメリカも日本との外交を通じて、この黄色人種はただの猿ではない、ということを知ったのに違いない。日本は長い間、辺境の島国として、その土地の中だけで独自の歴史を築いてきたわけだが、そこでは知らず知らずのうちに美徳を重んじる文化も培われていた。
集団を治める長にとって、必要不可欠な要素は民からの信頼と尊敬である、というのは前述のとおりで、それが無ければ集団は統治されない。それは最も小規模の社会であっても同様で、社会的動物である人間は信頼と尊敬を社会の運営における骨格としてきた。おそらくそれは人類の歴史の全般にわたって受け継がれてきたはずで、その歴史は人類の歴史そのものであると言える。
狩猟採集が生存本能に由来する行動様式であることは明白だが、美徳を重んずる精神も社会生活を本能的に要求する人間にとって生存本能と呼べるだろう。
日本の近代以前は、権力闘争において侍たちがお互いに属する主君のために戦ったが、徳川幕府は戦をせずに諸国を治めることに長い間成功して、武士は敵を斬る機会を失った。しかしその間も武士としての精神性や美徳は変わらずに重んじられた。その後、日本の国内政治とはほとんど関係なく、世界の強国が日本を脅かしかねない現実を知った有能な藩士たちによって、明治維新が起こり、大和の国は世界に通用する国家を目指し、近代化を目指した。日本を取り巻く世界はそれまでと一変して巨大化し、あらゆる現実が根底から覆され、圧倒的な規模で世界観は複雑化した。
21世紀の現代に比べれば、帝国主義が全盛を誇った近代社会の複雑さなど取るに足らないかも知れないが、狩猟採集から農耕型社会を形成するにあたって、人間はマルチタスクの克服を常に生存課題にしてきた筈である。管理するものが多くなればその分だけ統率が要求される。近代国家を形成して、短期間のうちに組み立て育て上げた自前の軍隊で清国と戦い、帝政ロシアと戦った。欧米の列強国に自ら赴いて、軍隊の何たるかを学んだ日本の志士たちは、列強から直輸入して自ら育て上げた軍隊と、軍事戦略と外交戦略とをもって、これら二国に勝利したのだが、それは日本人が江戸時代までに築き上げた美徳をその精神の中に辛うじて宿していたことも無関係ではないだろう。その頃はまだ日本の社会全体に江戸生まれの成人が沢山残っていた。
どんなものであれ戦いの場では、精神の美徳だけでは勝利することは出来ず、必ず身体性の優劣が勝敗を分けることになる。優れた身体能力と技術は戦いにおいて不可欠な要素である。それは戦争という大きな規模の戦いであっても同様で、軍が持つ軍事力と指揮官や参謀の生み出す作戦との兼ね合いが勝敗を分ける。その作戦には精神性という要素を組み入れてはならない。精神性はあくまでも、敵に体当たりをする兵の、その刹那の一歩、一撃に込められるべきもので、美徳そのものを戦術にしてはならない。太平洋戦争はまさにそれをもって参戦し、敗北した、と言えなくもない。戦後、冷静に判断すると、彼の戦争ほど無益なものは無かった、と判断されがちだが、当時の日本はそれまでの島国から一気に地球全体を世間と観なければならない、その責務と重圧のなかでとにかく焦ったのだ。
世界が広くなったことで、管理する要素は膨大に膨れ上がり、こなすべき役目は一層複雑化してしまった。マルチタスクは一人ひとりの人間に複雑な局面を与え、出来もしない解決を要求し、誤った判断を下すことはある意味で人類の前提事項となってしまった。
21世紀の現在、我々が眼にしている世界の国々のかたちと人々の生活は、日々進化し続ける技術によって目まぐるしく改変され、千変万化する生活習慣と価値観に引きずられながら、個人個人はなんとか自分だけでも生存しようともがいて必死に生きている。人類の長い歴史からすれば21世紀の現代社会はまだまだ生まれたてと言って良い。人類は歴史に学んで現在の人類の在り方を最も洗練された形式で治めていると過信しているが、民主主義が、資本主義が、地球という限定された環境の中だけでは万能に機能しないことは明白になっている。ろくでもない候補者が選挙で正当に選ばれてしまうし、ハラスメントという言葉は防御というよりむしろ攻撃性を増している。頼りにしていた化石燃料は意外と早くに底をつきそうだし、これらを使うと思った以上に二酸化炭素を排出するし、農業は思いのままに食糧を大量生産できると思っていたけれど、それ以上に人間の数は増えて、反して地球上の食料資源は枯渇の方へと益々加速している。ウイルスや細菌による脅威を次々と克服した人間にとって、最大の脅威は人間自身になってしまった我々は、肉体的にも精神的にも自分自身に侵されるようになってしまった。細胞は破壊に特化した能力に磨きをかけて異常に発達し、精神は意味も無く自らを深い闇へと引きずり込む。しかしながら、居心地という点で、今ある生活から抜け出せず、代替するべき主義に移行できないまま、暮らし慣れた生き方に身を任せ、人類はゆっくりと、しかし確実に崩壊へと歩みを進めている。
もちろん、人類の生物種としての絶滅を予言しているわけではない。もはや腰を掛けても持ちこたえられない壊れた椅子を、見て見ぬふりをしながら丸く並べて、高らかに音楽を掛け流して、人類は椅子の周りをぐるぐると一心不乱に回っているに過ぎない。
産業革命以降、儲かるシステムの構築が世界の最も主要な課題としてこれまで君臨してきたが、儲かる者の権力はあまりにも強大になり、彼らの儲けの伸びよりもさらに強大な威力で、儲からない者の数が増え続けている。世界は生きられない場所になりつつある、ということなのだ。完全に生きられない状態になるまで、茹でカエルの理論で人間もこの世界に浸かったままなのかも知れないが、実際にカエルを茹でる実験をしてみると、悉くカエルは湯から這い出るそうである。だから人間が湯から出られないのは、きっと湯加減のせいではないのだろう。それは頑なに“転ばない”と誓った信仰のせいなのかも知れない。

