儲かるシステム 壱

 パンデミックは遠い過去の話になって、人々はまた、世界中を飛び回るようになった。日本の景気が良かった時代には、仕事を引退して年金生活を始めた方々の多くが海外旅行をして、経済的な優位性を堪能していたが、今はその逆で、世界経済の中で停滞し、他の先進国に比べ相対的に価値の下がった日本円は、海外旅行客を日本に集める要因になっている。日本のお家芸だった製造業を中心とする経済は本質的には停滞しているそうだが、外国人観光客における日本での消費活動は、少なからず日本の、観光地の経済を助けてくれてはいるのだろう。しかしながら多くの人々が流入することで、環境の維持と整備はますます大きな課題となっていくはずで、観光地はそこへの将来的な大型投資を余儀なくされるはずである。

 単純な売り買いの世界において、儲かる話はそうそう無いと僕は考えている。つまり、一般人が執り行う売り買いには、プラスとマイナスが長い目で見て相殺される宿運があるように感じるのだ。大勢の外国人観光客が訪れる場所は、経済的収入と反比例するかたちで、環境維持の政策とコストが今後ますます重要性を増す筈で、その緊急性も見過ごしてはならないだろう。プラスとマイナスは大概、相殺されてしまう。

 一方で、希少性のあるものごとの裏側で大きな取引が行われることも、我々は別世界の事情として知っている。

 世界の第一線で活躍するプロスポーツ選手は、一般人が執り行う日常的な売り買いとは別のルールで、彼らの存在とパフォーマンスを売買する。そこで執り行われる遣り取りもルールも、僕は皆目わからないので空想することすら能わないが、とにかくも、世界の頂点に君臨するということの本質的な難しさと、人々がその存在に向ける眼差しと期待と羨望の熱さは、想像を絶する強大さを有している。

 例え話として的を得ているかどうかわからないが、人気飲食店の前で見かける長い行列における価値、を僕は時折考えた。例えば行列に並んだ200人のそれぞれの人が15分待たされるうどん店と、並んでいる50人のそれぞれが1時間待たされるラーメン店を考えてみると、双方のお店で浪費される人々の待ち時間の総数は共に3,000分である。つまり時間に換算すると50時間ということだ。丸二日間よりも長い時間であり、一般人の日常的な労働時間を8時間とすると、六日分の労働時間より多いのである。土曜日出勤でしかも週のうち最低一日は残業するくらいが週50時間労働である。行列で待たされている間にスマホを見るのではなく、並んでいる全ての人が何か特定のタスクを科せられるとしたら、一人の成人のまるまる一週間の勤務の成果をそこで実現できるということだ。土曜日出勤 + 一日残業有りの成果は決して小さくない筈である。その成果が、毎日、現実的には日本中のありとあらゆる行列において、多くの人のスマホの閲覧に置き換えられ、毎日毎日そうやって世界の時間が消費されていくことを考えると、何とはなしに考えさせられるのである。もしもスティーヴジョブズが早世することなく、常識を超越する新しい機器をさらに発明していたとしたら、人類は克服が困難な依存症と、人類の種の保存を賭けて戦わなければならない運命を背負わされたかも知れない。

 行列のできる飲食店はあくまで例え話だが、世界に目を向けると、人々を熱狂させるリソースは様々存在し、何よりその熱狂ぶりは実態を把握できないほど強大で、それらの熱狂に注がれるエネルギーはあちらこちらと揺れ動き、バブリーに膨れ上がる。プロサッカーのトーナメントや、プロ野球のリーグ戦、オリンピックの男子100m、格闘技の注目選手たちの対戦、はたまたアメリカ大統領のパフォーマンスや、いわゆるGAFAの動向においてすら、世界中の熱狂を集めるリソースとして、それらは仮想空間を駆け巡る。

 様々な種類のメディアで最新の話題が一気に世界中に流布すると、お腹を空かした釣り堀の魚が撒き餌に飛びつくように、熱狂に飢えている人々の注目を無慈悲に搔き集める。熱狂する側の幸福などは一切考えれられていない。熱狂を集めることがきっとタスクそれ自体なのであって、人々がそれに群がることで不意に被る害悪があろうとなかろうと、一縷の容赦も無い。

 熱狂に参加する当人たちにとっては、その渦中で、人生で二度と起こり得ないような最大級の興奮を得ているのだろう。武道館ライヴに集まって、目当てのミュージシャンのパフォーマンスを生で観て、聴いて、その場の空気を共有して、ミュージシャンと共に熱狂を分かち合うのだ。あの巨大な箱の中で生み出される総エネルギーは土曜出勤残業有りの週50時間労働などとは次元が違う。およそ一万人が2時間程度、全力を降り注ぐのだ。全力パフォーマンスという折り紙付きの2万時間がどれほどの仕事量に換算できるのか。火事場の馬鹿力という言葉があるが、全力というのが単純に平常時の二倍のパフォーマンスとするならば、一万人x2時間x2倍の馬鹿力で4万時間となる。一般的な成人の労働時間の年平均はおよそ2,000時間であるから、一人のお勤め人の20年分の労働となる。武道館ライヴでの一万人による2時間の熱狂は、一人の労働力20年分に相当するのだ。ホモサピエンスが偉大な生物種であるという認識は、ライヴの企画者側の観点か、ライヴで熱狂する参加者側の想いか。いずれにせよライヴ外側からの認識ではなさそうだ。

 パフォーマンスの売買の例えとして挙げたスポーツ競技において、プロの世界で活躍する以前の、学生時代の活躍が意味するところは大きい。日本におけるプロ野球であれば、高校野球の存在はほとんど不可欠で、甲子園で活躍するのはある意味においてプロ野球の前哨戦と見えなくもない。陸上競技においてもインターハイなど、プロフェッショナルを目指すきっかけとなるような場所がお膳立てされている。そのようにして出発点まで遡っていくと、小学生の頃に既にプロ選手として活躍することを夢見た、という少年少女は少なくない筈である。もちろん、その夢を真剣に追いかけた少年少女たちの全てが皆揃ってプロのプレイヤーに辿り着けるわけではない。プロの世界で活躍できるのは極めて狭き門をくぐり抜けた極少数の精鋭だけである。夢を実現するのは極めて稀なケースなのだ。

 プロとしてプレイすることを到達点として、幼少から競技に励むことも価値あることだろうが、皆が皆、その頂上の世界を目指しているわけではあるまい。

 全国に散らばる若々しい精鋭たちが集結して、甲子園やインターハイなどで技能を競い合うのは素敵なことだ。なにより競技をする本人たちの高揚は他の何物にも代えられない。日々努力を積み重ねなければ得られない成果をまざまざと知るだろう。それは学校の普段の授業では決して学べないし、経験できないことである。甲子園のグラウンドを多くの球児が目指すのだが、もちろん、そこに辿り着くのはトーナメントを勝ち抜いた精鋭達だけで、甲子園でプレイすること自体はむしろ、強く望んで日々努力を怠らなかったとしても、なお、なかなか経験できるものではない。高校の部活は事実上、二年半ほどの期間でしかないが、身体的な能力において最も伸び盛りで、パフォーマンスにおいても最も充実する時代である。青年達が自身の能力向上に熱中するのは、ある意味では必然なのかも知れない。その充実感は理屈ではなく遺伝子レヴェルで感じる高揚なのだろうと思う。だから、将来的にプロのプレイヤーになるつもりはなくても、人生において二度と経験できない高校生活を、あえて部活に明け暮れる道を選ぶというのは、人によってはそうせざるを得ない、他に選択肢の無い道なのだ。

 その中でもより優れた技能や才能を有するプレイヤー達は、もちろん自身の能力に自覚的で、さらに上の世界を目指すことになるのだ。二度と経験できない高校生活に留まらず、一度しか挑戦できない人生そのものに自身の全霊を投じるわけである。

 当たり前のことかも知れないが、自身の能力をある程度の正確さで査定できることはプレイヤーにおいて大切な要素である。逆説的には、自分はプロのプレイヤーにはなれないだろうことを明確に自覚する、ということをも意味する。将来的に世界の頂点で活躍できるような素質を自身に見出せないとしても、甲子園やインターハイでの競技参加を諦めなければならないわけではない。真剣に競技を続けることに一体どれだけの投資が必要なのかはわからないが、そこに経済的な報酬が発生しないと分かっていても、つまり投資は回収できないとしても、人はその世界に没入し、自身の鍛錬に心血を注ぎ、他のことを犠牲にしながら競技を継続するものなのだ。

 もちろん、それが一生続くとなると話は別である。個人の満足感や充実感、高揚だけでスポーツを継続できるものではない。真剣に競技に打ち込むためにはやはりそれなりにコストはかかってくるものだし、人は社会の中で生活手段も確立しなくてはならない。そしてちょうど良く、そこにプロスポーツという世界が立ち現れる。もちろんこれは大自然が用意したものではなく、人間が意図して立ち上げた興行の仮設舞台であるのだが。それが故に現在のプロスポーツの世界は、まず第一にエンターテインメントとしての役割が必要になる。人を魅せる力の無い競技はプロスポーツには成り得ない。逆説的に、現在、プロスポーツとして存在している競技は、多くの人がその競技に魅せられてきた、ということの裏返しでもある。古代ギリシャのオリンピアで開催されたという国家間で競う競技では、既に人々がどんな競技を観戦したいのか、が明確になっていたことを証明してもいる。それはまた個人の能力も然りで、プロのプレイヤーとして人気を博すのは、どんな競技においても何かしらの意味で魅せるプレイに長けているものである。魅せるものがないプレイヤーは早晩、競技者としてのポジションを追われることになるかもしれない。念を押すようだが、プロスポーツはエンターテインメントである。

 ヒトは競い合うことに熱を挙げる。そしてその行為自体にいつしか遣り甲斐を見出すものだ。何故、そんなことになるのかと問われれば、ホモサピエンスの遺伝的特性、あるいは生まれ持つ本能だとか、そんな適当な事しか僕には言えない。強制されて致し方なく携わっている、というよりは、明らかに好き好んでやっている、ようである。一般通念としては闘争本能のひとつと見てよさそうだ。このことはまた、敵対する者同士で勝敗を争うような競技に限らず、人によっては、それはもしかしたら幾分か稀なのかも知れないが、競技者たちのあいだで競われる明確な対戦形式ではない、言うなれば自分自身の向上にのみ心血を注ぐ場合もある。人間が編み出した対戦型スポーツと違って、向き合う相手は最終的に自分自身となる。老人と海のサンティアゴがそれであり、スポーツ競技などとは違った意味合いではあるものの、こういう場合もまた人々を魅了する力を持っている。サンティアゴが優れた技能と個性的な人間性を有しているおかげで、海上での彼の孤独な闘いは、我々ホモサピエンスのミラーニューロンを活性化させ、読者の集中力と興奮を煽るのかも知れない。

 サンティアゴの場合はカジキマグロを釣る漁師であるから、自分の能力の高さはある意味では収入に直結するし、物語を読む人も共感し易い筈である。何故なら獲物との駆け引きに勝利するときの独特な感覚は、我々が人間である以前に、類人猿から派生した動物であるという事実に直接呼応するからである。我々の祖先は長い長い歴史の中で狩りをして命を繋いできた。カジキマグロ釣りのような見ごたえのあるものは言うまでもないが、たとえ近所の川でカジカを釣るにしても、ある種の人にとって魚釣りというのは、最も興奮させられる行動様式のひとつとなっている。日常生活を継続するための労働とは別の次元で、狩猟行動が人の動物的本能を活性化させるのは良く知られるところである。

 そしてもうひとつ、これはさらに特殊な行動様式になるのだが、世界の名著の主人公から例えを挙げられるものに、カモメのジョナサンがある。

 主人公は人ではなく、海の上を飛ぶ一羽の雄カモメであるが、それを擬人化して主人公とした物語である。唯一、我々人間ではジョナサンのように空を飛ぶことが出来ないという点において、物語の主人公が人間でなく鳥でなければならない要素だが、しかしその内容はジョナサンが一人の人間であっても全く違和感の無い内容であり、実際のところ、これは人間の人生観を書いている。つまり、この物語はカモメの生態学的な特徴を研究したものではなく、ある種の存在(それは結局のところ人間である)が自己を極限まで鍛錬することにその生涯の全てを賭けることもある、という一見不可解な、生きることの性を描いたものである。このような生き方を時として選択する生命が、人間以外の生物にも実際に見られるのかは、正直分からない。そしてこの特性が遺伝子による表現型なのかどうかも今のところ不明である。

 漁師のサンティアゴが熱中したのは狩猟行動であり、行為そのものがある意味で生存に直接かかわるものである。高校野球の夏の大会で甲子園まで勝ち進むことは、ある意味において、プロスポーツでプレイする前哨戦でもあり、意外なようだが、それは現代社会においてすでに生存戦略と言える行動様式だ。エンターテインメントとして儲かるシステムがすでに構築されているビジネスの一部である。

 しかしジョナサンが賭しているのは自身の意志である。そこには生存を直接的に保証する要素は何も無い。強いて指摘するならば、孔雀の雄がその華麗な尾を扇のように広げて求愛行動をとることが進化の過程で獲得されているが、それは紛いも無く異性の注目を得るために先天的に獲得された要素である。一方でジョナサンは異性獲得のためではなく、自分自身のために後天的に能力を獲得しようとしている。そしてその能力とは結局のところ、美しく在る、というただその一点のためである。遺伝的に与えられる外見的な美醜ではなく、あくまで意志の美しさ問題である。

 孔雀の尾の扇状の羽根は美しいが、それは種の保存のために要求される能力が先天的に備えられたもので、その内実は、自身が美しく在ろうとして獲得したものではない。ジョナサンの場合は、例えるなら、一輪の花がその生涯で自分に能う限りに美しく咲きたい、という意志を後天的に獲得したかのように、あるいはきっと、植物にはもともとその意志が潜在的に内在しているとジョナサンは秘かに直覚して、自分自身もそう在りたいと斯様な意志を持つに至った、かのようである。小林秀雄の言った花の美しさを、ジョナサンは本能的に直覚したかのようだ。その要素を花自身が自ら自覚しているとは想像し難いが、さりとてそれが全くでたらめな絵空事、とは誰にも断言できない。

 ジョナサンが咲かせる花は雄しべや雌しべを介して受粉し、果実を育むものではないが、運良くその花を眼にした者に、忘れることのできない記憶を植え付けるだろう。その記憶は遺伝子を通して子孫に引き継がれるようなことはないが、少なくとも個体の生涯に前向きな姿勢を与えてくれる大切な記憶となるに違いない。しかしながらジョナサンは自分以外のいかなる存在も眼中になく、他者に対する何の配慮も無い。徹頭徹尾、自身のためだけに意志を貫いている。画家のポールゴーガンは妻と、その間にもうけた五人の子供をほとんど顧みることなく、タヒチへと渡って、そこで生涯を閉じた。生命は時として運命を弄ぶ強い力を誰かに注ぐ。それが洗礼なのか呪いなのか、知ったような判断を下すことは誰にも許されないが、とにかくも精神に働きかける強い力はいつも頑なに沈黙を守ったまま誰かしらに降り注いでいる。

 孔雀の雌も、もしかしたら生まれたときから審美眼を備えているのかも知れない。雄の尾羽の模様は、雌の注目を集めるために発達しただけだと人間は解釈するが、孔雀の雌は雄の尾羽に誠実さや信頼を探っているのだとしても、我々がそれを完全に否定することは出来ない。人間以外の動物に審美眼が宿るのかどうか、有るとも無いとも確約出来ないのが実情だ。人間が勝手に判断しなくても良い。

 一本の大木の立ち姿を見て、それを立派だと感嘆するのは人間だけに与えられた特権なのかどうか、実際は誰にもわからない。人間以外の動物や植物が、自分もこの大木のように生きたいと憧れを抱き、その存在に敬意を持つなどということは現実的に考えにくいが、時として、あたかもそういう大木に畏敬の念を抱いているが如く、小さな植物たちは健気に懸命にそこに在る。

 人類の長い歴史の中で、あるときから“美”という言葉が魂から分類された。生存戦略からの要求だったのか、とにかくも魂における“美”は言葉としても立脚することが望ましいと過去の偉人は直覚したのだろう。そのおかげで我々は美しさを感じる魂と並行して、考える概念としての“美”も我々の間で共有している。しかしながら言葉としての概念が存在しなかった頃の美は、人間も植物も動物もその魂を共有していることに誰もがより自覚的だったのではないかと僕は感じている。地上に生命が誕生したのは全宇宙の中でも決してありふれた事象ではないが、にも拘らず、生命は宇宙を構成しているものと同様の物質からできている。物質がある条件で組み合わさるとき、そこに生命が誕生し、その生命は、何故かは知る由も無いが、魂なるものに導かれるかのような振る舞い方をする。そして、時間が流れるのと同じような厳格さを持って、生まれ、なにものかへの志向性に沿って振る舞い、死ぬ。

 いずれにせよ、この世界には洗礼か、はたまた呪いか、後天的に降り注がれる力のような+αのエレメントがあって、それはきっと生命が生まれながらに持つ志向性と何かしら関係があり、見る限りにおいて、それを浴びてしまったら最後、抗うことは極めて難しいらしい。そしてさらに付け加えれば、生存戦略という観点から見て、この後天的な精神の力は生存への直接的な効果は甚だ希薄のように見えてしまうが、さりとて生命全体を俯瞰するとそれを志向せざるを得ないような、生命における初期設定と緊密で頑強な繋がりを持つように感じられる。

 “美”はもともと言語には分離されていないものだった。真核細胞が丁寧に遺伝子を複製して分裂するのと同じように、志向すべき道標として“美”を生命の初期設定の中に授かって、命は生まれるのかも知れない。いつしか言葉として分離されて以降、我々は美について考えることを余儀なくされたが、それはきっと生命が何故、地上に誕生しなければならなかったのか、という問いと本質的に同義なのだろう。我々が生きて死ぬことに本質的な意味は存在しないように、美を追うことに本質的意味があるわけではない。ただそれを志向することが生まれた者にとっての法なのだ。意図して組み立てる興行システムと相性が良くないのは、考えてみれば自然な事である。