完成された循環

 我々は皆、はじめは精子と卵子が合わさった受精卵からスタートしている。受精卵の大きさは直径およそ0.15mmだそうで、重さは0.000003グラム、言い換えれば百万分の三グラムだそうだ。それが10カ月で3.000グラムほどに成長し、10年も経てば30kgを優に超えるほどに成長する。

 出産までは母親からの血液の循環によって受精卵は成長し、出産後の乳児は母乳によって成長する。その後は赤ちゃんもだんだんと自分で咀嚼して食物を摂取するようになる。0.000003グラムの受精卵が百億倍の30,000グラムに成長できるその要因は、摂取した栄養、つまりは食料そのものである。

 我々の身体は実際に環境とボーダレスに繋がっている。浴びた光と、食べた食物と、飲んだ水と、吸った空気で、我々の身体は新陳代謝をし、日々の活動をこなしている。排泄物も、結局は微生物がそれを分解するが、それ以外にもっと効率よく排泄物を処理する方法は無いし、サプリメントだけで我々は健康に生きることはできない。インフラストラクチャは人間が意識的に拵えるものだが、それよりも完全な状態で地球環境は地上のあらゆる構成要素の循環を完成させている。生命はその循環にしっかりと収まって自らの寿命と折り合いをつけている。

 インフラストラクチャを考え出したのと同じように、人間は病気やケガの克服に臓器移植という手段を考えついた。

 実験用の小動物でその可能性は吟味され、実際に人間自身にも応用可能と判断されれば、病気を克服するために我々は自分のものではなかった内臓を自分のものとして組み込む。

 全身に火傷を負ってしまった患者の多くは命の危険に晒され、少なくない場合で命を落とすことがある。我々の皮膚は他人の皮膚を受け付けないので、火傷で失ってしまった皮膚を臓器移植のように他から貰ってくることはできないためである。

 皮膚が無ければ体液が奪われ、心臓機能は低下し、他の臓器にも障害が併発し、さらには皮膚からの細菌混入を防ぐことも出来ず、感染症も併発する。つまりは生存し続けることが出来なくなる。輸血をするのと同じように沢山のドナーから少しづつ皮膚を貰い受けて移植できるのなら、火傷から回復できるかも知れないが、実際には、皮膚という器官は自分自身の人格よりも強度なアイデンティティを持つ臓器なのである。条件の厳しさがあるとはいえ、心臓や肝臓は移植が可能であることを考えると、不思議なものである。

 臓器の置き換えが難しいと言えば、思いつくのは何と言っても脳である。脳は五感から入力される情報の全てを処理する器官であるから、一人ひとりの人間に無くてはならない最重要の臓器である。盲腸のように邪魔者扱いして取り除くことなど在り得ない。眼球があっても、それが脳と神経で繋がっていなければ、何も見ることはできないし、聞こえる音も食べた味も嗅いだ匂いも、それら感覚器と脳とが神経回路で繋がっていなければ、何も感じることは出来ない。脳はそれ以外にも自律神経系の運動も支配している。脳が無ければ心臓は血液ポンプとして働いてくれない。食事をしても胃は消化してくれないし、腸は栄養を吸収してくれない。つまり、生きるうえで何よりも根幹部を支える臓器が脳である。そして何よりも脳には個人の記憶が詰まっている。一体脳ミソのどこに我々の生々しい記憶が宿っているのか、その機構は判明していないが、なんにせよ自然の被造物は摩訶不思議である。

 脳科学の研究は日進月歩に発達し、一方で人工知能の技術もこのところ飛躍的に向上している。これらの技術と理論を組み合わせて、我々の脳の実態をより詳しく解き明かすことが出来るのだろうか。

 例えば我々が睡眠中に見る夢は現実に見ている世界ではないし、現実に起こっていることでもない。夢を構成するのは紛れもなく個人の記憶である。夢の中で観るあの生々しい情景は全て記憶が作りだす幻想であるが、その記憶は全て脳の中に仕舞われているという事実を考えると、ますますもって被造物の不可解さを想わずにはいられない。臓器として交換可能かどうかはさておき、これほど個人の歴史を蓄えているものは存在しないであろう。人間のおよそ37兆個といわる細胞は部位によってばらつきはあるものの、およそ4年間で全てが新しいものと入れ替わるのだそうだ。新陳代謝である。ただし脳細胞に限ってそれは例外で、基本的には脳細胞は新陳代謝をしない。海馬の歯状回という部位では、他の脳部位とは異なり、毎日神経細胞が新生しているらしく、学習効率の向上を司っているというが、その詳細は分かっていない。

 遠い記憶が長い期間を経ても個人の中に残るのは、新陳代謝をしないという例外性と関係しているのかも知れない。新陳代謝をするたびに個人の人格まで真新しくなっていては、本人はともかく周囲の人は付き合いきれなくなるだろう。

 どのような形で脳細胞のなかに記憶が残っているのか、その原理は全く不明だが、少なくとも目に見える形で記憶は保存されているわけではない。寝ているときに夢を見ている脳を、例えば高性能MRIでスキャンすれば、外部に接続されたモニター上に見ている夢を映像化できる時代が来るのなら、その時代には脳機能のかなりの部分を解明している筈である。しかしながら、寝ているときに見る夢を外部のモニターに投影するというのは、将来的にも実現は難しいはずである。MRIによって活性化している脳細胞をリアルタイムで微細に特定できたとしても、見ている夢のディテールは過去の記憶を元としている以上、完全に同じ記憶を共有する存在以外は、画像を構築できず、映像を共有することは出来ない。つまり、記憶はどこまで行っても、事実上たった一人の個人が独占することしかできず、どんなに近しい者でも、正確な意味でそれを共有することは出来ない。

 きっと記憶の正体は、一つひとつの脳細胞であり、それぞれのシナプス結合のネットワークそのものであろう。繰り返すがそれは他の何をもってしても置き換えることのできない唯一無二の構造でありシステムである。

 一人の人間が生まれて、その人生を生きるというのは、何も特別なことではない。過去20万年に渡って繰り返されたそれぞれ個別の苦行である。一人ひとりの人間は他の誰とも置き換えることが出来ない。病気は治療できるかも知れないが、人格を造り替えることは出来ない。別の記憶に置き換えることもできないし、全く同じ記憶と経験を再構築することもできない。消してしまいたい過去の記憶があるのは本当に悲しいことであるが、そういう記憶はほとんど場合、踏み台にするのにちょうど良い大きさと高さなのだ。臆することなく是非ともその上に素晴らしい記憶を積み重ねてほしい。先天的な機能障害に苦しむことがある場合は、そのことを過度に負い目とせず、自身の立場で生きることのダイナミズムを味わってほしい。人間社会では何やら面倒な役割分担があるように見えるのだが、それもみんな、インフラストラクチャと同様の、勝手に後から拵えた張りぼてのお遊戯みたいなものである。元来、我々は生まれ落ちたときに、既に完成された循環のなかに組み込まれている。食べて出して吸って吐いてをするだけで、もう歴とした地球のメンバーなのである。たとえそれがどんなに小さなものでも、一人ひとりの生を地球は確実に保証している。上手く生きられないと感じても、何かうまい手立てはきっといつか見つかる。もちろんそれは生きてみなければわからないけれども。

 たとえ先行き不安でも、投げ出さずになんとか踏みとどまらなくちゃいけない。不安なのはあなた一人でもないし、僕一人でもない。状況がいつまでも全く変わらないなどということは、歴史上、一度も起こらなかったことだから。