世界を支えるディテール

 いま、机に置かれたラップトップに向かっている僕の、目の前に広がる極めて限られた私的な世界と、窓の外にいつもある景色。街全体を形作る様々なエレメントと、それらのエレメントの詳細を形成する要素。世の中に無数に存在しているオブジェクト、家具や家電や日用品。地球全体から見れば、針で突くよりも小さな点でしかない場所で、僕は無数のエレメントに囲まれて日常を送っている。

 この世界を平たく二分することはできないが、そうだとしても自然と人工、地球と地球以外、というふうに言葉の上では区別できる。概念ではほとんどのものを区分けすることが出来る。大自然の森林と、人工物のみで構成された大都会では、一方を自然と称し、他方を人工と見なすことが出来る。実際はそれらの二大要素が混在する土地のほうが多いのではないか。日本で言えば里山というのは、自然と人間社会の共存の場をかなり意図的に人間が拵えた環境様式である。どこまでが自然でどこからが人工か、具体的なものごとに対峙するとその境界を示すことは難しい。

 人工知能が話題になっている。言葉が示す通り、それは人工的に造られるものであるのだが、こと人工知能に至っては、人工知能というシステム、あるいは装置を人間が作りだしたのはその通りであるが、そのシステムが生み出すものは生成物と呼ばれ、純粋に人間が作った物でもなさそうな、実に微妙な立ち位置にある。コンピュータに演算させて自動的に生成される。演算に関わるプロセスの仕組みは人間が組み立てるのだし、プロンプトと呼ばれる、言ってみれば、演算の振る舞いに方向性を持たせる舵取りも人間が担わなければならないが、その演算プロセスそのものに人間は関与していないようだ。

 世界は三分されつつある。自然と、人工と、人工知能と。

 人工知能においてはその生成過程の関与の度合いにおいて、現状ではまだまだ人為的であるのが認められるが、今後、人為的な関与の度合いは限りなく減少していくだろう。プロンプトすらも人工知能に生成させるシステムを構築してしまえば、人間が関与する割合をさらに間引くことが出来る。養老孟司さんの著作「唯脳論」に明快に説明されているが、人類の発明や知恵は、実はこの世界にもともとある物理現象のコピー、しかも多くの場合は無意識的に解釈され、コピーされたかのようにも見える、言ってみれば“物理法則の二番煎じ”という考え方がある。人工知能の演算プロセスの発展は、二番煎じ理論でいえば、どれだけ人間の脳内の思考プロセスを解明し、それを再現できるか如何による、ということである。脳の回路と仕組みをそっくり真似て人工知能の演算プロセスに応用すれば良いのだ。睡魔に抗えなかったり、目覚まし時計無しでは正確に起床のタイミングをコントロールできない我々の脳と、同じ作用を備えた人工知能のシステムが将来的に誕生するのか、見ものである。

 人間の場合は朝、目覚めてから脳が活動してたくさんの情報を受け取り、あるいは出力し、日中の活動をこなして、夜になって就寝の準備をして明日の朝に備える。寝ているあいだには、新たに記憶として保存するものと、記憶せずに処分すべき情報を選り分けたり、つまりは脳内のエントロピーを低い状態に整頓しなければならない。この流れを太陽の周期に合わせて一日に一度行うように人類は習慣化した。睡眠は身体全体の臓器を健全に維持するための手入れだろうと考えらえるし、睡眠が無ければ脳も日々の情報処理をまともにできないだろう。人工知能を備えたシステムが、人間と同様に自己認識的である必要は必ずしもないかも知れないが、システムの不具合を自己管理修復できるようなプログラムが成立すれば、突然、寝落ちして勝手に目を覚ますのかも知れない。

 人間も含めた動物は、食べることで身体の構成要素を入れ替えているが、都市も人工知能もさすがに自己複製はできない。これはDNAとRNAが可能にしているシステムだが、同じ機能を持つシステムを人工的に一から生み出すとなると、あまりに複雑すぎて具体的なプロセスを想像できなくなってしまう。この世界にもともとある物理現象も、その仔細を見てゆけば人為的にコピーするには厄介なものもやっぱりあるようだ。

 世界を平たく二分することはできない、と書いたが、どこからが人工物であるかという以上に、人工物で構成された大都会も地球の表面に拵えたものである以上、地球の重力や自転公転という要素を排除できない。だから天気の変化を作用として受けるし、何より、そこに集まる膨大な数の人々の振る舞いは、複雑系の範疇すらも逸脱する混沌そのものである。人工的に構成された大都会を定点観測すれば、そこには天候の変化も介入するし、なにより人々の流れは完全に一過性のプロセスで次から次へと押し流されていく。そのすべてをプロンプトに書いて演算可能な枠内に置く、というほど自然の介入は単純な振る舞いに還元できない。実際の自然現象は正規分布のグラフにのっからない事象も当然含まれる。天候も人々の振る舞いも。それらが大都会の構成要素に与えている影響はもちろん少なくない。いくら都市が人工的に形成されたとはいえ、あらゆる隙間にカオスは侵入している。ひとたび生成された人工物は、開かれた環境の中で介入者の浸透に晒され、自然と簡単に二分することができなくなってしまう。

 人工知能による生成物は今のところ、膨大な量の演算によって得られるものであり、その演算に掛けられる素材は、元を辿ればすべて、誰かが情報としてまとめたものである。どこかの誰かが過去のいずれかの時点で拵えたものだ。素材として扱えるプラットフォーム上に載っていさえすれば、人工知能は世界中のあらゆる情報を瞬時に集めてその要点をまとめてくれる。そのまとめ方だって、正規分布の釣り鐘の中央部分だけではなく、極度に右寄りだったり、あるいは左寄りのサンプルだけを選択して、秀才やアウトサイダーのフリをすることもそのうちやってのけるだろう。システムの構築方法やプロンプトの記入の仕方次第で、人工知能の利用はその幅もますます広がり、生成物のクオリティはますます高くなるだろう。さてそれらと共存する人間自身は一体どう変化していくのか。自然環境は人間によって気候変動を強制されたが、人間は人工知能によって何を強制されるだろう。その道筋は明言できないが、人工知能が人間社会と個人に対して何かしらの強制力を持つだろうことは確実である。人工知能の生成物を利用して社会を徐々に変容させるのは難しくない。そして個人の生活をますます平易せしめるのも容易に想像がつく。平易を通り越して圧迫さえするだろう。何故なら人間が最も扱いづらいのは自分以外の人間だからである。これからはわざわざ下げたくない頭を誰かに下げなくとも良い。つまるところ、多くの人が誰からも頼られなくなる、ということである。

 人間は生きることの虚しさからいつまでも逃れることはできないだろう。結局いつも後になって自身の首を締めるのだ。でも大丈夫。虚しさから解放されたければ、向精神薬をお医者さんが処方してくれる。地球資源が大きな電力を供給できる限り、人工知能はその拡散を緩めない。電力が途絶えるときまで、われわれはひたすら息をひそめて生き延びることに専念すればよいだけだ。

 人殺しは最も重い刑罰に処されるが、戦争は合法である。戦争の主導者たちは揃って、正義のための闘いだという。正義を守りたいもの同士が殺し合うことの意味が僕には良く分からないが、その戦争に武器を供給する取り巻きは、実行犯ではなくとも共謀犯ではないのか。モアイ像で有名なイースター島には大昔、亜熱帯雨林の森林に覆い尽くされていた。土地に辿り着いた航海する民は、そこに定住し、文明を発展させる代わりに最後の一本までその森を容赦なく伐採した。今も、この瞬間も、世界中で森林を撲滅させんが如くに、いち早く最後の一本を切り倒そうと人類は躍起になって樹木を切り倒している。

 大丈夫、心配することはない。人類には過去にも偉大な人物を沢山輩出したし、これからも優れた人物は世界のどこかに必ず現れて、我々の子孫を正しい方へと導いてくれるに違いない。そうだ。その優れた人はきっと、戦争が起こらないように、政治家たちに道徳と倫理を教え諭す。そしてきっと、政治家とは口で言って理解できる人間ではなく、ご褒美でしか従わない人種であることに気付くのだろう。優れた人はまた、昨今のIT技術を支える半導体の製造を、大掛かりな最先端工場での生産ではなく、誰もが手作りで生産可能なものに刷新するに違いない。そして市民は徐々に平等を再び手に入れるのだ。そして人類は18世紀の産業革命後と同様に、隣家を出し抜こうと徹夜で働くのである。そう、僕らは人間に生まれてしまったのだ。虚しさからは逃れられない。

 個人はいつも、別の個人の振る舞いに右往左往するものだが、歴史を見ると一度たりとも社会の解体に成功した社会はなかった。虚しいときに人は、結局、人恋しくなるのかも知れない。

 一度きりの人生は平坦であっても、山あり谷ありの過酷なものであっても、時間的に長いものであっても、思いのほか短くとも、日が照って陰る、そんな一進一退を繰り返す旅程である。

 自然物であれ人工物であれ演算の生成物であれ、そこに対峙するのは一人ひとりの個人である。いろいろなものに取り囲まれながらも、新しい技術を前にするとそれを称賛して積極的に取り入れる側と、全く正反対に、嫌悪して排他的に振舞う側と二分されるのをしばしば目にするが、そう見えるのは見かけだけで、多くの人は状況に流されるだけである。誰がどういうかたちで世界の流れを作るのかを見届けながらも、それに抗う人はいつも少数である。結局、その時点で歩きやすい道を行くのが生きることそのものだからだろう。

 プロセスの時間を短縮するのは、何かを積極的に手に入れたいとする願望の裏返しである。そしてすこしでも多くの果実を得て、満足したつもりになる。積極的であれ消極的であれ、生きることは物質的にも時間的にもディテールの積み重ねである。それが社会と世界とその周囲を、良くも悪くも形作っている。そして生きていれば必ず、短縮できないプロセスに行く手を阻まれ、実際に自分自身で辿らなければならないディテールを目の当たりにするはずである。そもそも自分自身がプロセスそのものである。身体の新陳代謝は、あなた自身が食べて、動いて、寝て、を実際に繰り返さなければならない。そのことに自覚しているだろうか。

 生きるというのは昨日やり終えたことを綺麗さっぱり忘れて、今日もまた始めに戻って繰り返すことから始まるのだ。

 翻って、我々個々の生は環境における新陳代謝である。たとえ日常が取るに足らない詰まらぬものであっても、それに向き合うのが生きることそのものである。詰まらないことに丁寧に向き合うことは決して虚しい作業ではない。虚しさはディテールを顧みない視力の乏しさかも知れない。それぞれの生命を形作るのは自己形成する細胞の一つ一つであって、この世界の今を下支えするのは一刻一刻に積み重ねらるディテールである。

 歴史的に見て、世界に革命的な変化をもたらす偉才が現れては、社会がそれを追従してきた。世界中に大小無数に存在する社会が、ゆっくりと、変化と停滞のうねりの中で、新たなディテールが生まれ、浸透し沈殿していく。気付き難いかも知れないが、今この時も、世界はそのうねりをもってディテールを重ねている。僕はようやく最近になって、そのディテールの幅とその愛らしさに気が付いた。

 彫刻制作の傍ら、週末になると僕はカメラにフィルムを装填して、街へと繰り出す。不安と期待と、ある種の責任感を秘めながら、それは常に前向きな姿勢と緊張感を与える。ダーウィンがビーグル号でガラパゴス諸島に到達し、その土地を見て、異世界の詳細を丹念に、根気よく観察した。ディテールの深さと驚愕すべき見事な仕組みに、彼の意志は突き動かされていた筈である。僕は彼のように辺境の地へ探検に行くことはないが、日常の中の、描き残すべきディテールを今やっと、自分の眼で観つつある。