自由意志の自由

 数年前から、人間に自由意志は存在しない、という科学者の言説が聞かれるようになった。曰く、脳内の電気信号の検出結果によれば、自身が自由な意志に基づいて行動を起こすほんの僅か先行して、無意識的な電位シグナルが脳内で発火しているという事実が観測され、人間の行動に自由意志によって導かれるものは存在しない、というのが現代脳科学の主流見解であるらしい。

 ある個人が自由な意志に基づいて行動を起こすほんの少し前に、その意識的行動のシグナルに先行する意識外のシグナルが脳内で発火されるという、間違いない実験観測データがあるからといって、すぐさま自由意志の存在が否定されることに素人ながら疑問を感じるのであるが、観測結果がどうあれ、自分の生活様式が変わるわけではないのでつまるところはどうでも良い。

 日本人であれば多くの人が御存じだと思うが、NHKが制作していたピタゴラスイッチという番組があった(今もあるのか?)。そこでは非常に複雑に考えられたピタゴラ装置というカラクリ遊びが割と大掛かりなセットとなって展開されていた。元々はPete FischliとDavid Weissという二人のスイス人アーティストによる現代アート作品から発想を得たものだろうことは明らかだが、ピタゴラ装置がその二番煎じであることはほとんど知られていない。ドミノ倒しのように、たった一つの単純な動きが出発点となって、その装置のなかで多種多様な動きに展開され、山あり谷ありが繰り広げられた末に、再びたった一つの動きに終着し、装置全体の動作を閉じる。一連の物理的な動作を面白おかしく展開して可視化したカラクリ遊びである。

 ひとつのピタゴラ装置の中で繰り広げられる一連の動作を、人間の脳内活動と置き換えて考えるなら、ひとつのニューロンが発火したことに誘発されて様々な記憶が呼び覚まされたり、思考実験が脳内で繰り広げられて、最終的に運動として信号が出力されるまでプロセスとして、アナロジカルに見ることもできる。それが脳の物理的な作用のアナロジーとしてどこまで真実味があるかは別として。

 何かの入力がきっかけとなって思考に火が付き、最終的にある運動出力に変換される、というのはおよそ脳内で起きていることと類似していると思うが、最も難しく、謎が謎として残るのは、脳内においていったい何が最初の発火を司るのか、ということである。ピタゴラ装置では、その装置の外部にある誰かの指が“自由意志”を発動させるのだが、ピタゴラ装置としてはその指の存在を意味あるものとしては扱っていない。人間の脳内におけるニューロンネットワークという装置の中で、一体何が意志の原初として立ち上がるのか。こう考えると何やらある瞬間に無から有が唐突に出現するように感じられるが、おそらくニューロンネットワークはそんな動きをしないであろう。心臓が動きをとめずに体内には血液の絶え間ない循環が実行されているのと同じように、ニューロンの電位活性においても、きっと始まりと終わりは無いのではないか。つまりどんな電位シグナルも絶え間のない流れの中にあって、突然、自由意志なるものが無から生じるのではない、ということである。常に流れの中にあるという前提を据えれば、自由意志の始まりと終わりは境界が存在しない、いつもじわじわと揺らいでいるものではないかと僕には思える。

 ピタゴラ装置で、例えば積み木が滑るときは自意識状態であり、ビー玉が転がっているときは無意識状態である、などと運動の状態を区分して、それらが全体の中で何かしらの役割をしていると仮定しよう。ニューロンネットワークのシグナルの特性によって自意識的な脳内活動と無意識的な脳内活動とに分けることが可能で、自由意志発動の出発点は前述のようにじわじわとした揺らぎの中で、厳密な境界はなく曖昧なものだと仮定すれば、自由意志の発火の瞬間が本人にとって自意識的であるかどうかは、自由意志の存在の有無と話の次元が違うと言わざるを得ない。つまり、自由意志は存在しているが、その発動が自意識的であるかどうかは、もしかしたら重要でないのかも知れないということだ。発想を練るというようなの主体的な思考も全てのプロセスが自己認識的ではない、ということである。自意識的、あるいは自己反芻的であるというのは、実際は脳内現象の極めて僅かな部分でしかないのかも知れない。小林秀雄は自己反芻的であることを並行現象として、そんな無駄な現象が存在するはずが無いと退けた。小林は、自意識的な脳内現象が無意識的な現象と全く同等な現象として起きているのならば、それは単なる並行現象であって、そもそも意味が無い、と異議を立てたのだが、自意識的な脳内活動が無意識的な活動のごくわずかな部分に過ぎないとすれば、自己反芻する意識は並行現象ではなくて、確認である。

 人類が科学的な考察や実験によって様々な物理現象の実態を明らかにして、説明してきたのは事実である。しかしながらそれらの説明が完全に正しいものであるかどうかは、それらの現象を観察する眼の解像能力や頭の理解力に依存するものだ。科学的な考察はこれまでたくさんの物理現象を説明し、実際に実験と照合してそれらが現実的に正しいことも証明してきた。しかしだからといって、宇宙が誕生して138億年といわれているその歴史を本当の意味でに理解しているわけではない。人類が地上に誕生したのはせいぜい20万年前といわれているし、宇宙を科学的観測で探究し始めたのは古くとも数百年というレベルである。ビッグバンの宇宙創成だってまことしやかに話されているが、そんな大昔の宇宙の実態などそう易々と解かるものでもあるまい。

 仮に、無限の広さを持つ水槽に、水が無限に溜められていて、そこに一滴の黒いインクが落とされて、そのインクが時間をかけて徐々に水の中で拡散していき、やがて無限に広がり水とインクが混ざり合って平均化する過程を観察するとして、今はまだ完全に拡散しきれていない途中の段階にあるのがこの宇宙の実像である。ビッグバン理論は拡散の具合を観察しながら、どうやらこれはもともと一滴の黒いインクから始まったようだ、と仮説を提唱しているに過ぎない。ビッグバンの内容が我々にとって俄かに想像し難いのは、この水槽が無限の大きさで、溜められている水も無限なので、一滴の黒いインクは上からポトリと垂らされたものではなく、水の中で突如として発生したとしか説明がつかない点にある。一滴の黒いインクが徐々に拡散して水の中で均質化していくのは想像できるが、あるとき突然、一滴の黒いインクが水中に発生することが想像できないのである。それを説明するために、その黒いインクは元々体積はゼロで質量は無限大という、理屈の上でしか成り立たないような条件を付加することで、理論を成り立たせたのがビッグバン理論である。言わずもがな我々は138億年といわれる宇宙の歴史において常に最後の瞬間を生きている。その我々が膨張している宇宙の実情を見ながら、宇宙を時間的に逆再生しながら原初の状態を科学的に想像したものがビッグバン理論であり、科学的に尤もらしいこの逆再生が、実際は宇宙の歴史的事実と異なった空想に過ぎない可能性が大いにあることを忘れてはならない。それが実際に起こった事実であるかどうかは、誰も知らないし、実際は甚だ疑わしいと僕には思えるのである。僕自身は、最初の黒い一滴のインクは単純に始まりではなく、流動的な現象の中における、あるときのフェーズに過ぎなかったのだろうと空想している。今の宇宙は熱力学の第二法則に従ってエントロピーが増大するフェーズにあるのだが、そのフェーズが転移する時代や空間が過去に存在していたとしても不思議ではない。つまりエントロピーが一方的に増大するしかない今現在のフェーズだけが全宇宙の歴史的実態とは限らない、ということである。例えば水の中に均質に混ぜられた油が、長い時間をかけてゆっくりと、油の分子がお互いに引き付け合って、やがて無数の細かい粒子状の液体になり、それらの粒子がさらに時間を経て大きな一滴の油として結合するような、そんな、エントロピー逆転のフェーズが大昔の宇宙にあったかも知れないではないか。つまり黒インクは、宇宙の流れの中で、あるとき、一滴の黒インクの状態を呈したことがあったが、逆エントロピーの時空間においてインクは平均的に拡散されていて、今とは違う宇宙像を呈していたのかも知れない。体積ゼロで質量無限大のビッグバン状態が歴史に存在していなかった宇宙だって想像しても良いのだ。

 現代素粒子物理学では、超弦理論が主流になっているようだが、僕自身はひも理論とよばれていた二十数年前に、Brian Greene博士の本で読み知ったのが初めてであった。

 そこで唱えられていた理論によれば、宇宙は11次元あって我々が見知る四次元の時空間以上に7つの余剰次元が存在して、それらが絡み合っているのが素粒子の世界、ということだった。当時はその理論を鵜呑みにして人間の知覚力の乏しさを嘆いていたものだが、実際のところは、世界が11次元になるような代数を数式に組み込むと観測データの計算が合う、というだけの単なる辻褄合わせで、実際に11次元の空間を実験的に観測したわけではないのだ。一杯食わされた感がある。つまり云いたいことは、世の中で提唱されている科学的な通説は我々の頭脳が認識でき、三次元世界を眺める二つの眼で解像できる範囲で物事を観測する場合の、限定的な見方に過ぎない。裏を返せば科学的通説はいくらでも疑って良い、ということでもある。例えば現在主流の素粒子物理学であれば、世の中の現象は全て確率的に記載される。世の中は数え切れないほどのエレメントがお互いに干渉しあいながら現実を構成しているし、ミクロな素粒子の現象に至っては細かすぎて実際に確認できず、現象は本当に確率でしか言い当てられないのである。実際、素粒子だって現物を見て確認したわけではなく、数式上の存在である。翻って世界の現象を観察するとき、あらゆる事象にはあらゆる可能性を排除できない不確実性を認めるのが基本的な見方になる。

 確立において、予測不可能性を排除してしまう二つのフェーズ、0と100、あらゆる可能性が排除できない物理現象において0%と100%は存在しないとされる。しかし宇宙の物理現象はいざ知らず、我々の心象世界においては0%も100%もあり得る筈である。言語を持つ我々にとって絶対や確固や確信という言葉は存在するものの、実際の生活ではやっぱり決心は揺らいでしまうし、どれだけ深く確信していたことであっても、心変わりが避けられない場合もある。逆に0もしくは100という白黒だけで決めてしまうと、いざというときの柔軟性を失い、結果的に行く手を阻まれかねない。しかしながら我々一人ひとりは宇宙と比べるとその寿命はほんの一瞬である。その束の間のあいだに信念を得たとして、それがときに足元を掬ったとしても、いつもいつも元凶ばかりではあるまい。むしろ人間は失敗からしか学べないと考えれば、少しくらい打率が悪くても、ふらふらして無安打で終わるよりはマシではないか。たかだか80年程度の間において揺らがないものがあっても良かろうと思う。世の中の全ての事象が不確実でいて、どんなことも起こり得るというならば、せめて自分一人の意志だけはときとして揺るがないものであったとて、恐れるほどのことでもないと思うこの頃なのだ。歳を取って融通が利かなくなっただけなのだろうが、さりとてどんな状況にも対応可能な融通の利く自分自身はもう幻想でしかないことも既に知ってしまっているのである。

 第一、我々の意志すらも数式に乗るのであれば、僕が睡眠中に見ている夢を解析してモニターで映して見せてほしい。というのも目覚めたとき、いつも忘れてしまうのだ。しかしそれをするには僕の脳内のあらゆる記憶とその場所とその微細なディテールを正確に把握しなければならないが、脳細胞をいくら細かく分析したとて、僕の記憶のディテールまでは、たとえお釈迦様でも解き明かせまい。